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8月32日

8月32日

夏休みも残りわずかとなった8月31日の夕方、僕は近所の公園を歩いていた。宿題に追われる憂鬱さから逃れるため、夕涼みがてら外に出たのだった。住宅街の中にある小さな公園で、普段はほとんど人がいない。滑り台とブランコ、砂場があるだけの、何の変哲もない場所だ。

ベンチに座って空を見上げていると、足元に何かが落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、それは一枚のカレンダーだった。よくある月めくりタイプのもので、表紙には「8」の数字が大きく印刷されている。

しかし、よく見ると奇妙なことに気づいた。日付の部分に「32」と書かれているのだ。8月32日。そんな日は存在しない。誰かの悪戯だろうか。それとも印刷ミスか。

カレンダーの紙質は古く、触ると少し湿っているような感触があった。裏面を見ても、発行元や印刷会社の記載は一切ない。ただ「8月32日」とだけ書かれている。

興味本位で、僕はそのカレンダーをポケットに入れて家に帰った。その夜、僕は不思議な夢を見た。時計の針が逆回りし、カレンダーの日付が次々と変わっていく夢だった。そして最後に「8月32日」で止まるのだ。

翌朝、目を覚ますと枕元の時計は7時を指していた。しかし、いつもなら聞こえるはずの通学時間の子供たちの声が全く聞こえない。カーテンを開けて外を見ると、街は静まり返っていた。

時計を確認すると、確かに朝の7時を指している。しかし針は動いていなかった。デジタル時計も、携帯電話の時計も、全て7時00分で止まったままだった。

携帯電話を確認すると、画面に表示された日付に愕然とした。「8月32日」となっているのだ。電波は圏外表示で、インターネットにも繋がらない。

慌てて外に出ると、街の様子は昨日と変わらないように見えた。しかし、何かが決定的に違っていた。人がいないのだ。車も走っていない。風もない。まるで世界が停止したかのようだった。

しばらく歩いていると、遠くから人影が見えた。安堵して声をかけようと近づくと、その人は振り返った。しかし、その顔は無表情で、目に光がなかった。まるで人形のような顔だった。

「おはようございます」と声をかけても、その人は何も答えず、ただじっと僕を見つめているだけだった。そして、ゆっくりとした動作で歩き続けていく。

他にも数人の人に出会ったが、皆同じような無表情で、誰も言葉を発しなかった。まるで魂が抜けたような状態だった。

不安になった僕は、あの公園に向かった。何かヒントがあるかもしれない。公園に着くと、驚いたことに数人の人が集まっていた。しかも、彼らは普通の表情をしていた。

「君も迷い込んだのか」

振り返ると、30代くらいの男性が立っていた。その人の表情は、街で出会った人たちとは違って生気があった。

「迷い込んだって、何にですか?」

「8月32日さ。君もカレンダーを見つけたんだろう?」

僕は驚いて、ポケットからカレンダーを取り出した。男性は苦笑いを浮かべた。

「やっぱりな。僕は3日前にここに来た。この公園で同じようなカレンダーを拾ってね」

公園には全部で7人の人がいた。年齢も性別もバラバラだったが、皆同じようにカレンダーを持っていた。そして皆、8月32日という存在しない日に迷い込んでいた。

「ここは一体何なんですか?」僕は震え声で尋ねた。

年配の女性が答えた。「おそらく、時間の隙間のような場所よ。8月31日と9月1日の間に存在する、本来あってはならない日。私たちはその日に囚われてしまったの」

「どうすれば元の世界に戻れるんですか?」

「それが分からないのよ。カレンダーを捨てても、破いても、燃やしても消えない。そして時間は永遠に7時で止まったまま」

僕は絶望的な気持ちになった。ここから出ることはできないのか。永遠にこの奇妙な世界で過ごすことになるのか。

しかし、その時、一人の少女が口を開いた。

「でも、気づいたことがあるの。街にいる人たち、あの無表情な人たちも、最初は私たちと同じだったんじゃない?」

「どういうことだ?」男性が尋ねた。

「時間が経つにつれて、感情が薄れていくの。最初にここに来た人ほど、表情がなくなっていく。私、一番最初に来た人を知ってるの。もう2週間もここにいる人。その人、もう完全に人形みたいになってる」

僕たちは戦慄した。つまり、ここに長くいると、最終的には感情を失い、魂のない存在になってしまうということなのか。

「じゃあ、急いで脱出方法を見つけないと」

僕たちは必死に考えた。カレンダーに何か秘密があるはずだ。よく観察すると、カレンダーの「32」の数字が薄く見えることに気づいた。まるで消しゴムで消したような跡がある。

「もしかして、この数字を完全に消せば…」

僕は消しゴムを取り出し、必死に32の数字を擦った。すると、数字が薄くなっていく。そして完全に消えた瞬間、世界が歪んだ。

周囲の景色がぐにゃりと曲がり、時間が逆回転するような感覚に襲われた。気がつくと、僕は元の公園のベンチに座っていた。

携帯電話を確認すると、日付は9月1日の朝7時を表示していた。時計の針も正常に動いている。街には通学する子供たちの声が響いていた。

ホッとして立ち上がろうとした時、足元に何かが落ちているのに気づいた。

それは一枚のカレンダーだった。表紙には「9」の数字が大きく印刷されている。

そして日付の部分には「9月31日」と書かれていた。

僕は慌ててそのカレンダーから目を逸らし、踏みつけて公園から逃げ出した。振り返ると、ベンチに一人の中学生くらいの男の子が座り、何かを拾い上げているのが見えた。

「やめろ!」

僕は叫んだが、声は届かなかった。男の子はカレンダーをポケットに入れ、興味深そうに眺めながら家の方向に歩いて行った。

そして僕は理解した。この公園は罠なのだ。存在しない日付のカレンダーを使って、人々を時の隙間に誘い込む。そして一度捕らえた人間の感情と魂を徐々に吸い取っていく。

僕が脱出できたのは運が良かっただけだった。そして今、新たな犠牲者が生まれようとしている。

その後、僕はその公園を避けるようになった。しかし時々、夢に見るのだ。あの8月32日の世界を。そして無表情になった人たちの顔を。

彼らは今でも、あの永遠に止まった時間の中で彷徨っているのだろうか。