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達筆の少女

書道部

秋風が校舎の窓を揺らす十月の午後、私たち書道部は文化祭の準備に追われていた。部室に並べられた作品を見回しながら、部長の田中が首をかしげる。

「おかしいな。作品が一つ多い」

私も含めて部員は十二人。しかし、展示予定の作品は十三点あった。余分な一点は、他の作品とは明らかに格が違っていた。半紙に書かれた「花鳥風月」の四文字は、まるで生きているかのように美しく、見る者の心を奪う。筆致は繊細でありながら力強く、とても高校生が書けるレベルではない。

「誰が書いたの、これ?」一年生の佐藤が恐る恐る尋ねた。

しかし、誰も心当たりがない。作品には名前も書かれておらず、いつの間にか他の作品に紛れ込んでいた。

「まあ、きっと誰かが冗談で置いていったんだろう。レベルが高いし、展示しちゃおうか」

田中の提案で、私たちはその無記名の作品も展示することに決めた。

翌日から、奇妙なことが起き始めた。

最初に倒れたのは三年生の山田だった。午前中の練習中、突然ふらつき始め、保健室に運ばれた。意識を取り戻した彼女は、青ざめた顔でこう語った。

「夢を見たの。古い和室で、白い着物を着た少女が筆で何かを書いていた。その少女が振り返って、私の名前を半紙に書き始めた時、目が覚めた」

私たちは心配したが、山田は翌日には元気になった。ただ、彼女は無記名の作品を見ようとしなくなった。見ると「また夢を見そうで怖い」と言って。

しかし、それは始まりに過ぎなかった。

一週間後、今度は二年生の鈴木が練習中に倒れた。彼女も同じような夢を見たと言った。白い着物の少女、古い和室、そして名前を書かれる恐怖。

「その子の顔、はっきり見えなかったけど、すごく悲しそうだった」鈴木は震え声で続けた。「私の名前を書き終わったら、何かが起こりそうで…でも、その前に目が覚めた」

三人目は一年生の佐藤だった。倒れる前、彼女は無記名の作品をじっと見つめていた。まるで吸い込まれるように。

「その作品、見てるとなんだか懐かしい気持ちになる」佐藤は朦朧とした意識の中でつぶやいた。「でも、怖い。なんで怖いんだろう」

私は恐ろしくなった。三人とも、共通して無記名の作品に見とれた後に倒れ、同じような夢を見ている。偶然では済まされない。

その夜、私は学校の資料を調べた。過去の書道部の記録、生徒名簿、新聞記事。そして、ついに恐ろしい真実を発見した。

二十年前、この学校に恵美という名前の一年生がいた。書道の天才と呼ばれるほどの腕前で、多くのコンクールで入賞していた。しかし、彼女は文化祭の直前に姿を消した。

新聞記事によると、恵美は家庭の事情で突然転校することになったという。しかし、最後の記録を見て、私は血の気が引いた。

恵美の最後の作品は「花鳥風月」だった。

翌日、私は一人で部室に向かった。無記名の作品を改めて見つめる。美しい筆致の中に、何か深い悲しみが込められているように感じられた。

その時、作品の隅に薄く文字が見えることに気づいた。光の角度を変えて見ると、そこには小さく「恵美」と書かれていた。

「見つけてくれたのね」

背後から声がした。振り返ると、白い着物を着た少女が立っていた。顔は霞んでよく見えないが、深い悲しみを湛えた瞳だけがはっきりと見える。

「あなたが恵美ちゃん?」

少女は静かに頷いた。

「私、本当は転校なんてしたくなかった。この学校が、書道部が大好きだった。でも、誰も私の気持ちを聞いてくれなかった。名前だけ書類から消されて、まるで最初からいなかったみたい」

恵美の声は風のように儚い。

「だから、私は戻ってきた。自分の作品に名前を残すために。でも、誰も気づいてくれない。だから、みんなの名前を私が書いてあげる。そうすれば、私たちは永遠に一緒にいられる」

私は理解した。恵美は寂しかったのだ。急な転校で友達とも別れを告げられず、自分の存在を誰にも覚えてもらえない悲しみが、彼女を現世に縛り付けていた。

「でも、それじゃあみんなも恵美ちゃんと同じように消されちゃう」

恵美の表情が揺らいだ。

「私は、ただ…」

「寂しいのはわかる。でも、恵美ちゃんの作品はこんなに美しい。みんな、きっと覚えてる。恵美ちゃんがいたことを、忘れたりしない」

私は恵美の作品を指差した。

「この作品に、ちゃんと名前を書こう。恵美ちゃんの名前を。そうすれば、恵美ちゃんがここにいたことを、みんなが知ることができる」

恵美の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「本当に…覚えていてくれる?」

「もちろん。恵美ちゃんは書道部の大切な先輩だもの」

その瞬間、恵美の姿が光に包まれ、静かに消えていった。最後に小さく「ありがとう」という声が聞こえた気がした。

翌日、私たちは恵美の作品に正式に名前を記した。「花鳥風月 作者:川村恵美(昭和の書道部員)」として。

文化祭当日、多くの来場者がその作品に見入っていた。ある年配の女性が涙を流しながら言った。

「恵美ちゃん…元気にしてるかしら。突然いなくなって、お別れも言えなかった」

それは恵美の元担任の先生だった。

倒れた三人の部員は、その日から普通に過ごせるようになった。夢も見なくなった。ただ、みんな口を揃えて言う。

「恵美先輩の作品を見てると、なんだか温かい気持ちになる」

私も同感だった。恵美の作品からは、もう悲しみではなく、静かな満足感が感じられる。きっと彼女は安らかな場所にいるのだろう。

それから毎年、文化祭では恵美の作品を展示している。彼女がここにいたこと、素晴らしい才能を持っていたことを忘れないために。

そして時々、部室で一人練習している時、見守ってくれているような優しい気配を感じることがある。きっと恵美が、後輩たちの成長を見守ってくれているのだと思う。

名前を奪おうとした少女は、最後に自分の名前を取り戻した。そして今、彼女の名前は多くの人の心に刻まれている。それが、恵美が本当に望んでいたことだったのかもしれない。

ただ一つだけ、私にはわからないことがある。

あの日、恵美と話した記憶があるのに、翌朝目覚めた時、なぜか夢だったような気がしてならないのだ。でも、恵美の作品には確かに名前が書かれている。

これは現実だったのか、それとも恵美が見せてくれた特別な夢だったのか。

真実は、美しい筆致の中に永遠に秘められている。