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湯気の向こう側

風呂

引っ越して三日目の夜、私は新居のお風呂に初めて浸かった。仕事の都合で単身赴任になり、築30年のアパートを借りたのだ。風呂場は古いながらも、大家さんが去年リフォームしたらしく、浴槽は新しい。

湯気の立ち上る風呂場の照明は少し暗めで、タイル張りの壁には古さが残る。シャワーを浴びてから湯船に入ると、疲れた体がほぐれていくのを感じた。

目を閉じてしばらくぼんやりしていると、水音が聞こえた。シャワーの蛇口が完全に閉まっていなかったのか。目を開けて確認しようとしたが、湯気で曇って見えにくい。それでも、水が滴る音は確かに聞こえる。

「閉め忘れたかな」と思いながら立ち上がると、音は止んだ。蛇口を確認すると、きちんと閉まっていた。気のせいだろう。再び湯船に浸かる。

翌日も同じように風呂に入った。この日は特に仕事が忙しく、肩が凝っていた。お湯の温度も少し高めにして、ゆっくり浸かる。

またあの音が聞こえた。今度は、はっきりと。ポタポタという単調な音ではなく、水面をさっと撫でるような音。誰かが隣で手を動かしているような…。

急いで目を開けると、やはり誰もいない。湯船の水面は、私が動いた波紋だけが広がっている。

三日目、仕事から帰るとなぜか風呂場の電球が切れていた。大家さんに連絡すると、「明日交換します」と言われた。その日は懐中電灯を置いて入浴することにした。

薄暗い光の中、湯船に浸かっていると、いつもより湯気が濃く感じられた。そして今度は、湯気の向こうに何かが見えた気がした。人影のようなものが、一瞬だけ。

「疲れてるんだな」と自分に言い聞かせた。しかし、再び水音。今度は確実に、誰かが水に手を入れる音だった。

恐る恐る声をかける。「誰かいますか?」

返事はない。ただ、湯気の向こうで何かが動いたような…。

慌てて浴槽から上がり、バスタオルを巻いて部屋に戻った。その夜は何度も目が覚めた。

四日目、大家さんが電球を交換してくれた。「あの、この部屋の前に住んでた人って…」と聞いてみると、大家さんは少し表情を曇らせた。

「特に何も…」と言いかけて、「ああ、そういえば前の方は風呂が好きだったみたいで、長風呂するタイプでしたね」と付け加えた。

その夜、新しい電球の明るい光の中で入浴することにした。今日は何も起きないだろうと思っていた矢先、浴室のドアがノックされた。

「はい?」と応じると、返事はない。もう一度ノックの音。開けてみると、廊下には誰もいなかった。

再び湯船に浸かる。今度は背中に視線を感じた。振り返る勇気はなかった。代わりに、湯船の水面を見た。そこに映るのは私だけのはずだった。

しかし、湯気が晴れた一瞬、水面に映ったのは、私の後ろに立つ人影だった。振り返る間もなく、水面に何かが触れ、波紋が広がった。

その日から、私は湯船につからなくなった。シャワーだけで済ませるようになった。でも、シャワーを浴びていると、いつも背中に視線を感じる。カーテンの向こう側に誰かがいるような不安感。

一週間後、隣の住人と廊下で会った。「あの、変な質問かもしれないんですが、お風呂で何か…変なこと、ありませんか?」と尋ねてみた。

「ああ、あなたも気づいたんですね」と隣人は静かに言った。「この建物、元々は銭湯だったんです。改装して集合住宅になった。でも、誰かがまだここで泳いでるみたいですね…」

その夜、風呂場から水音が聞こえた。私はシャワーを使っていない。誰かが湯船に浸かっている音だった。

恐る恐るドアを開けると、風呂場は空だった。でも浴槽の水面には、誰かが今まさに出たばかりのような波紋が広がっていた。そして湯気の中に、かすかに人の形が見えた気がした。

その人影は、ゆっくりと手を伸ばし、私を風呂場の中へと招き入れているようだった。