私が勤める中学校の三階にある女子トイレの最奥の個室は、なぜか誰も使わない。
赴任して一ヶ月が経った頃、同僚の佐藤先生から「あそこだけは使わないほうがいい」と忠告された。理由は聞いても「気にしないでください」と言うばかり。校舎は築40年と古いが、そのトイレは5年前に改装されたばかりで綺麗なのに不思議だった。
ある日、授業中にお腹を壊し、近くの三階トイレに駆け込んだ。他の個室は全て使用中で、空いているのはその最奥の個室だけだった。「迷信なんて」と思い、ドアを開けた。
中は確かに綺麗だった。ただ、入った瞬間から何とも言えない違和感があった。壁の白さが妙に目に刺さる。便座に座ると、天井からポタポタと水滴が落ちてきた。見上げても水漏れの跡はない。
翌日、同じトイレに行くと、最奥の個室だけ故障中の張り紙があった。「やっぱり水漏れか」と思いながら別の個室に入った。すると隣から鉛筆で何かを書く音が聞こえた。カリカリ、カリカリ。授業中のはずなのに。
一週間後、その張り紙は消えていた。気になって中を覗くと、壁に何か落書きがある。近づいてみると「ここにいるよ」と薄く書かれていた。いたずらか、と思いながらも、背筋が寒くなった。
職員室で聞いてみると、誰も知らないという。掃除担当の用務員さんに確認すると「あそこは特に問題ありませんよ。誰も使わないから綺麗なままです」と答えた。使わないのに綺麗なのは当然だ。しかし「誰も使わない」という言葉が引っかかった。
図書室で学校の歴史を調べてみることにした。そこで5年前の新聞記事を見つけた。「中学校で女子生徒が自殺、校内トイレで」。場所は書かれていないが、時期はトイレ改装の直前だった。
その夜、残業で遅くなり、誰もいない校舎を歩いていると、三階から水の流れる音が聞こえた。不思議に思い階段を上がると、女子トイレから確かに水音がする。
恐る恐るドアを開け、「誰かいますか?」と声をかけた。返事はない。最奥の個室のドアだけが半開きになっていた。ドアを押してみると、中は暗かった。手探りで電気のスイッチを探すと、壁に何かが触れた。指先に冷たく湿った感触。
電気をつけると、壁一面に「ここにいるよ」という文字が書かれていた。インクは赤黒く、少し湿っている。触ってしまった指先が赤く染まっていた。
すぐに職員室に戻り、校長先生に報告した。警察が呼ばれ、学校は一時騒然となった。しかし、翌朝見に行くと、あの落書きは消えていた。警察も「証拠がない」と去っていった。
それから毎日、私はあの個室が気になって仕方なかった。ある日、思い切って佐藤先生に5年前の事件について尋ねてみた。
「あなた、あまり詮索しないほうがいい」と言いながらも、佐藤先生は話してくれた。自殺した生徒は「いじめ」を苦に命を絶ったこと。その子が最後にいたのがあの個室だったこと。そして、改装後も時々あの個室から泣き声が聞こえるという噂があること。
「でも、それだけじゃないんです」と佐藤先生は声を潜めた。「あの子を追い詰めたのは生徒だけじゃない。先生も関わっていた。その先生は今も…」
その瞬間、職員室のドアが開き、校長先生が入ってきた。佐藤先生は急に黙り込んだ。
それから数日後、私はトイレの掃除当番になった。三階に行くと、最奥の個室からかすかにすすり泣く声が聞こえた。ドアをノックすると、泣き声は止んだ。
ゆっくりドアを開けると、中には誰もいなかった。ただ、便座の上に一枚の古い写真が置かれていた。それは職員集合写真で、端に写っていた若い女性教師の顔が丸く囲まれていた。
その顔をよく見ると、それは私の顔だった。