新築の一人暮らしを始めた私にとって、最寄り駅は徒歩15分の「月影駅」だった。都心からは少し離れているが、静かな環境が気に入っていた。
ある日、残業で終電間際に駅に着いた。改札を通ろうとすると、駅員が声をかけてきた。
「お客さん、今日はもう最終電車が出ましたよ」
時計を見ると23時55分。時刻表では0時5分発のはずだった。
「でも、まだ最終電車の時間ではないと思うのですが」
駅員は微笑んだ。「ああ、そうでしたね。勘違いしました。奥の改札からどうぞ」
普段使っていない小さな改札を指差す。駅の端にあるその改札は、いつも通らない場所だった。
ICカードをタッチすると、改札機から変な音がした。駅員は「古い機械なもので」と言いながら、手動で改札を開けてくれた。
ホームに降りると、確かに電車が待っていた。乗り込むと、車内は私一人だけ。変だとは思ったが、疲れていたので気にせず座った。
次の日から、なぜか私は毎日その奥の改札を使うようになっていた。いつの間にか習慣になっていたのだ。同じ駅員が毎回立っている。彼はいつも私に微笑みかけるが、他の乗客には無関心だった。
一週間後、同じく遅くなった帰り道。駅に着くと、奥の改札に人だかりができていた。近づいてみると、黄色いテープが張られ、警察官が数人立っていた。好奇心から駅員に尋ねると、「昨夜、お客さんが倒れて…命に別状はないですが、ちょっと調査中で」と答えた。
その夜は普通の改札を使った。不思議と寂しさを感じた。
翌日、奥の改札は通常通り利用できるようになっていた。例の駅員も立っている。「昨日の人は大丈夫でしたか?」と聞くと、彼は首を傾げた。「何のことですか?」
おかしいと思ったが、それ以上は問わなかった。
週末、友人と飲んで終電近くに駅に戻ると、友人が不思議そうな顔をした。「なあ、あの改札どうしたの?」
奥の改札を見ると、板で塞がれていた。「工事中」の札がかかっている。
「えっ、昨日まで使ってたんだけど…」 「何言ってるの?あの改札、去年の事故以来ずっと閉鎖されてるよ」
血の気が引いた。友人の話では、一年前にこの駅で人身事故があり、その改札付近で乗客が亡くなったのだという。それ以来、この改札は使われていないとのことだった。
信じられず、駅員室に行き、奥の改札について尋ねた。若い駅員は「あちらは事故以来使用停止になっています」と答えた。例の駅員の姿はどこにもない。
次の日から、私は意識的に普通の改札を使うようにした。しかし、毎晩遅く帰ると、奥の改札から自分の名前を呼ぶような気がする。「気のせいだ」と言い聞かせ、無視し続けた。
そして昨夜、終電間際に駅に着いた時、奥の改札に例の駅員が立っていた。彼は私を見て微笑み、手招きした。
「お客さん、こちらの電車の方が早いですよ」
その時、不意に駅内放送が流れた。「本日で月影駅は廃駅となります。0時以降のご利用はできませんのでご注意ください」
時計を見ると23時59分。駅員の笑顔が妙に広がっていく。
「さあ、最後の改札です。通りませんか?」
改札の向こうには電車が待っている。扉が開いたまま、まるで私を待っているかのように。
見ると、車内には先日事故があったという人や、見覚えのある顔が何人も座っている。みな青白い顔で、私を見つめていた。
そして改札機のディスプレイに表示されている行先は「終着」の二文字。
時計が0時を指した瞬間、駅内の電気が消え、暗闇の中で改札機だけが赤く光った。
駅員の声が響く。「さあ、あなたの切符はもう切りましたよ」
振り返ると、普通の改札も出口も見当たらない。ただ、奥の改札と電車だけが、暗闇の中で私を待っていた。