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隣の席

デスク

私が配属された部署の隣の席は、いつも空いていた。

入社して三ヶ月、総務部の片隅に与えられた私の机の隣には、誰も座っていなかった。パソコンはあるし、筆記用具も置かれているのに、人の気配はない。

「あそこは佐藤さんの席です」と課長は言った。「今は長期休暇中で」

それ以上は聞かなかった。会社の暗黙のルールで、詮索は無用だと理解していた。

ある日、残業が深夜に及んだ。オフィスには私一人だけが残り、資料をまとめていた。午前1時を回った頃、ふと隣の机に視線を移すと、モニターが点いていた。

「誰かいたのか?」と思いながら近づくと、画面にはエクセルのシートが開かれていた。最終更新日時は3ヶ月前。私が入社する直前だ。

次の日、同僚の山田に佐藤について尋ねてみた。 「ああ、佐藤さん?」山田は言葉を選ぶように間を置いた。「彼女、よく残業してたよ。いつも最後まで残ってた」

それからというもの、残業する度に隣の席が気になるようになった。誰もいないはずなのに、たまにキーボードを打つ音が聞こえる気がする。振り返ると、もちろん誰もいない。

一週間後、また深夜まで残業していると、隣の席からはっきりとタイピング音が聞こえた。恐る恐る見ると、キーボードのキーが一つずつ沈み、何かが打たれている。しかし、椅子には誰も座っていない。

震える手でスマホのカメラを向けると、画面には何も映らなかった。音だけがカタカタと続いている。

慌てて帰ろうとした時、パソコンの画面に文字が浮かび上がった。 「手伝ってくれませんか」

凍りついた私の背後から、冷たい風が吹き抜けた。

翌日、勇気を出して総務課の古株の鈴木さんに聞いてみた。 「佐藤さんのこと、何か知ってますか?」

鈴木さんは周囲を見回してから、小声で言った。 「彼女は過労で…」そこまで言って口をつぐんだ。「詳しくは言えないけど、あなたも気をつけなさい。この部署、ノルマがきついから」

その晩も残業することになった。午後10時、同僚たちが次々と帰り、フロアには私一人になった。隣の席が妙に気になる。モニターは消えているが、なぜか椅子だけが引き出されていた。

「佐藤さん…ですか?」勇気を振り絞って声をかけてみた。

返事はない。しかし、モニターが突然点灯し、メモ帳が開いた。そこには一行のメッセージ。 「終わらない仕事、手伝って」

背筋が凍るような恐怖を感じながらも、私は尋ねた。「何を手伝えばいいですか?」

画面には新たな文字が浮かび上がる。 「この資料、提出期限は三ヶ月前」

添付されていたのは、私が今取り組んでいるプロジェクトとそっくりの資料だった。

「佐藤さんも、これをやっていたんですか?」

「終わらなかった」という返信。「だから、今でも」

恐る恐る振り返ると、椅子に薄い影のようなものが見えた。輪郭だけの、女性の姿。青白い光を放ち、必死にキーボードを打っている。

「期限に間に合わなくて…」声にならない声が聞こえた。「だから、私…」

その時、彼女の姿がはっきりと見えた。痩せこけた顔、血走った目、疲労で変色した肌。そして彼女の足元には、大量の資料が積み重なっていた。終わらない仕事の山。

「あなたも、もうすぐ」彼女はゆっくりと立ち上がり、私に手を伸ばした。「一緒に…ずっと残業…」

恐怖で体が動かない。彼女の冷たい手が私の肩に触れた瞬間、警備員が巡回にやってきた。

「まだ残ってたんですか。もう午前2時ですよ」

振り返ると、隣の席に誰もいなくなっていた。モニターも消えている。

それ以来、私は残業を避けるようになった。しかし先週、上司から大きなプロジェクトを任された。「佐藤さんもやっていたものだから、君なら大丈夫だろう」と。

提出期限は一ヶ月後。私は今夜も残業している。そして時々、隣の席からタイピング音が聞こえる。彼女が手伝ってくれているのか、それとも私を連れていこうとしているのか…。

もう午前0時を回った。隣の席の椅子が、ゆっくりと私の方に近づいてきている。