夕暮れ時、私は夕食の準備をしていた。両親は出張で不在、一人暮らしのような静けさが家に満ちていた。
窓から差し込む夕日が台所に長い影を作り出す頃、微かな音が聞こえた気がした。冷蔵庫の唸りか、水道管の音だろうと思い、包丁を握る手を止めなかった。
「お腹すいた…」
誰かの声が聞こえた気がした。振り返ると、そこには誰もいない。疲れているのかもしれない。再び野菜を切り始める。
「もうすぐごはん?」
今度ははっきりと聞こえた。子供のような、しかし少し歪んだ声。しかし家には私しかいないはずだ。
「気のせいだ」
そう言い聞かせながら、鍋に水を張った。日が沈みはじめ、台所が徐々に暗くなっていく。照明をつけようと手を伸ばしたその時、スイッチの横に何かが見えた。
小さな手形。子供の手のように見える、湿った跡が壁についていた。昨日はなかったはずの跡。
動悸が早くなる。家の中を確認しようと思ったが、なぜか足が動かない。
「お腹すいた…食べたい…」
声は台所の隅から聞こえてきた。振り返ると、食器棚の陰に小さな影。それはゆっくりと動き、次第に形をなしていく。
子供の姿だった。しかし、何かが違う。その子の顔には目も鼻も口もなく、ただ湿った皮膚のようなものが覆っているだけ。それでも話すことができるのか、声だけが空間に響く。
「お姉ちゃん、ごはんまだ?」
震える手で包丁を握りしめる。誰かのいたずらなのか、幻覚なのか。しかし、その子は確かにそこにいた。
「あ、あなたは誰?」
問いかけると、子供はゆっくりと首を傾げた。
「忘れちゃったの?いつも一緒だったのに」
そう言うと、子供は台所の床に座り込んだ。よく見ると、その足はひどく汚れていて、まるで何日も歩き続けたかのようだった。
「私はここに住んでる子だよ。お姉ちゃんが出ていく前の」
記憶を探る。確かに、この家に引っ越してきたのは三年前。以前の住人のことは聞いていなかった。
「あの日、お姉ちゃんはどこに行ったの?台所に閉じ込めて、出ていったよね」
子供の言葉に、背筋が凍る思いがした。
「違う、私はずっとここに…」
言いかけて気づいた。子供は私のことを「お姉ちゃん」と呼んでいるが、それは私ではなく、以前ここに住んでいた誰かを指しているのだ。
「お腹すいた…もう何日も食べてない…」
子供が立ち上がり、よろよろと近づいてくる。その体からは腐敗したような匂いがした。恐怖で声も出ない。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま!夕飯の準備、ありがとね」
母の声だった。一瞬、安堵感に包まれる。振り返ると、子供の姿はもうなかった。
母が台所に入ってきて、驚いた表情を浮かべた。
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
言葉に詰まる私。幻だったのだろうか。
「ねえ、前の住人のこと知ってる?」思い切って聞いてみた。
母の表情が曇った。
「聞かないほうがいいわ…特に、その子のこと」
母の視線が、私の手元に向けられた。見ると、包丁が赤く染まっていた。血のようなもので。そして自分の手のひらには、小さな手形がついていた。
「なに、これ…」
台所の隅から、再び微かな声が聞こえた。
「お腹すいた…」