寝室の天井を見つめながら、私は耳を澄ました。
またあの音だ。
微かな、かすかな、足音のような音。まるで誰かが絨毯の上を慎重に歩いているような音。でも、この家には私しかいないはずだ。
最初に気づいたのは三週間前、残業で疲れ果てて帰宅した夜だった。キッチンで夜食を作っていると、廊下から何かがこすれるような音が聞こえた。疲れているせいだろうと思い、気にせず就寝した。
次の日も、その次の日も、家のどこかから微かな物音が聞こえてきた。最初は古いアパートだからと自分に言い聞かせた。木造の建物は年月とともに音を立てる。それは当然のことだ。
しかし、一週間が経ち、音は徐々に変わっていった。単なる建物の軋みではなく、何かが動いているような音になった。そして何より、その音の発生源が少しずつ私の寝室に近づいているように感じられた。
最初は台所からだった音が、リビングに、そして廊下へと移動している。まるで何かが、あるいは誰かが、じわじわと私に近づいてきているようだった。
「気のせいだ」
私は何度もそう自分に言い聞かせた。でも、先週の金曜日、決定的な出来事があった。仕事から帰宅すると、使っていないはずの客間の電気がついていた。確かに朝は消したはずだ。忘れたのかもしれないと思ったが、翌朝、キッチンのテーブルがわずかに位置を変えていることに気がついた。
わずか5センチほど。気づかないレベルの変化だが、私は毎朝同じ位置に座って朝食を食べる。その習慣があったからこそ、違和感に気がついた。
「誰かが入ってきたのかな…」
防犯カメラを設置しようか考えたが、それは却下した。もし本当に何者かが侵入しているのなら、それを映像で確認することが怖かった。代わりに、ドアと窓の鍵を二重にし、家具で補強した。
しかし、それでも音は止まなかった。むしろ大きくなっていった。
昨夜は、廊下の奥から何かを引きずるような音が聞こえた。恐る恐る確認すると、何もなかった。しかし、朝起きると、玄関に置いてあったはずの傘が、リビングのソファの横に立てかけられていた。
私はその日、会社を早退した。精神科医に相談すると、「ストレスからくる幻聴や幻覚の可能性が高い」と診断された。睡眠薬を処方され、「ゆっくり休めば良くなる」と言われた。
その夜、薬を飲んで早めに床についた。深い眠りに落ちる直前、ドアの開く音がした。
「気のせいだ…」
そう思いながら意識が遠のいていく中、ベッドの横に誰かが立っている気配がした。でも、目を開ける勇気はなかった。
朝、目覚めると、枕元に見知らぬ髪の毛が一本落ちていた。長く、黒い髪。私の短い茶髪とは明らかに違うものだった。
その日から、私は実家に避難することにした。アパートを引き払う準備をするために、最後に荷物をまとめに戻った時のことだ。
キッチンテーブルの上に一枚のメモがあった。私の筆跡によく似た文字で、こう書かれていた。
「もう逃げないで。寂しかったよ。」
荷物をまとめながら、私はずっと背後に誰かの気配を感じていた。振り向くたびに、影が動いたような気がした。しかし、そこには誰もいない。
最後に寝室に入ると、ベッドの上に何かが置かれていた。近づいて見ると、それは古いぬいぐるみだった。子供の頃に持っていたはずの、でも何年も前に捨てたはずのぬいぐるみ。
「覚えてる?一緒に遊んだこと」
背後から声が聞こえた気がした。振り向いたが、そこには誰もいなかった。
私は慌ててアパートを出た。エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。扉が閉まる直前、廊下の角から何かが覗いているように見えた。
実家に着いてからも、私は時々背後に誰かの気配を感じる。特に夜、一人でいる時に。
昨夜も、台所から微かな物音が聞こえた。「気のせいだ」と思い、無視しようとした。
しかし、朝起きると、枕元に一本の髪の毛が落ちていた。長く、黒い髪。
そして、鏡に向かったとき、私は気づいた。鏡に映る自分の横に、もう一人の「私」が立っていることに。
それは一瞬だけだった。目を疑い、もう一度見ると、そこには私一人の姿しかなかった。
でも確かに見た。もう一人の「私」が、にっこりと笑っていたのを。
今も、背後に誰かの気配がする。振り向けば、また影が動くのだろうか。
もしかしたら、私はずっと一人じゃなかったのかもしれない。
それとも、本当に気のせいなのだろうか。