夕暮れが近づく住宅街。空は淡いオレンジ色に染まり始め、街にはどこか物憂げな空気が漂っていた。真新しいマンションと古い一軒家が混在するこの町に、私は転勤で引っ越してきたばかりだった。
妻と5歳の娘・美咲を連れての新生活。初めは不安もあったが、職場は快適で、近所の人たちも親切だった。特に我が家から徒歩5分ほどの場所にある小さな公園は、美咲のお気に入りの場所になっていた。
「パパ、今日も公園行こう!」
土曜日の午後、美咲が私の手を引っ張る。最近は仕事で疲れていたので、妻に任せることが多かったが、今日は久しぶりに自分が連れていくことにした。
「いいよ。でも長居はしないからね」
公園は想像以上に小さかった。古びたブランコ、滑り台、砂場、そして小さな鉄棒がある程度で、ベンチが2つほど置かれているだけの質素なものだった。それでも子どもたちには十分なのだろう。平日の夕方になると近所の子どもたちで賑わっていたが、週末はそれほど人が多くない。
午後3時40分頃、私たちは公園に着いた。美咲は嬉しそうに滑り台に駆け寄った。他には小学生の男の子が一人、砂場で何かを作っているだけだった。私はベンチに座り、スマホをチェックしながら時々美咲の様子を見ていた。
そのとき、ふと砂場にいた男の子が急いで荷物をまとめ、立ち上がるのが目に入った。彼は腕時計をチラリと見ると、慌てた様子で母親らしき女性の元へ走って行った。
「もう帰るの?」と母親が尋ねる声が聞こえた。 「うん、もう遅いから」と男の子。
時計を見ると、3時55分。そんなに遅い時間でもないのに、と思ったが、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるのだろう。
美咲は相変わらず元気に遊び回っていた。私はSNSに夢中になっていたが、ふと気がつくと公園がやけに静かになっていた。美咲は滑り台の上に座り、何かを見つめているようだった。
「美咲、そろそろ帰ろうか」
声をかけたが返事がない。少し心配になって近づくと、美咲は滑り台の下の方を指差していた。
「パパ、あそこにお友達がいるよ」
滑り台の影になった部分を見たが、誰もいなかった。
「どこに?」
「そこだよ、見えないの?女の子がいるよ。一緒に遊ぼうって言ってる」
子どもの想像の友達というのはよくある話だ。気にせず、「じゃあ、そのお友達にさよならして帰ろうか」と言った。
その時、腕時計が4時を指した。
風が止み、公園全体が不自然な静けさに包まれた。鳥の声も、遠くの車の音も、すべてが消えたかのようだった。そして、滑り台の金属部分が、誰かが触れたかのように、かすかに揺れた。
「ねえ、一緒に遊ぼう」
小さな、しかし明瞭な声が聞こえた。私は背筋が凍るのを感じた。その声は美咲の背後からではなく、確かに滑り台の下から聞こえてきたのだ。
「美咲、こっちにおいで」
急かすように手を伸ばしたが、美咲は動かなかった。
「でもパパ、この子、一人ぼっちで寂しいって」
「今日はもう遅いんだ。さあ、早く」
やっと美咲の手を掴み、公園の出口へ向かった。しかし、出口に近づくと、奇妙なことに公園の外の景色がぼやけて見えた。まるで薄い膜を通して見ているかのように。
「パパ、帰れないよ」
美咲の言葉に、私は立ち止まった。確かに、公園の出口に近づけば近づくほど、外の景色が遠ざかっていくような錯覚を覚えた。冷や汗が背中を伝った。
その時、再び声が聞こえた。今度は私の耳元で。
「無視しちゃダメだよ。一緒に遊ぼう」
振り返ると、滑り台の方から小さな影が伸びていた。人の形をしているが、どこか不自然だった。そして、その影は徐々に私たちの方へ近づいてきていた。
「パパ、怖い」
美咲が私の服をぎゅっと掴んだ。何が起きているのか理解できなかったが、とにかくここから出なければならないと感じた。
しかし、どこへ行っても出口は遠ざかるばかり。時計は4時5分を示していたが、空の色は変わらず、時間だけが止まっているかのようだった。
「一緒に遊ぼう。寂しいの」
声はもう目の前だった。そして、私は恐ろしいことに気づいた。影は美咲に向かって手を伸ばしていたのだ。
咄嗟に美咲を抱きかかえ、滑り台の上に駆け上がった。高い場所なら安全かもしれないという本能的な判断だった。
「美咲、目を閉じて。何があっても開けちゃだめだよ」
美咲は小さく頷き、私の胸に顔を埋めた。
そこで私は思い出した。公園に着いた時、急いで帰っていった男の子のことを。彼は知っていたのだ。この公園で午後4時に何が起こるのかを。
影はゆっくりと滑り台を登り始めた。私は頭を必死に働かせた。どうすれば良いのか。逃げても出られない。しかし、相手をするとどうなるのか。
「遊んでくれないの?」
声が悲しげに問いかけてきた。そして、私の中で一つの考えが浮かんだ。
「ごめんね、今日は娘と一緒なんだ。また今度、一人で来るよ」
声をかけると、影が止まった。そして、ゆっくりと後退し始めた。
「約束する?明日、一人で来てくれる?」
「約束するよ」
もちろん嘘だった。二度とこの公園には近づくつもりはなかった。
影は滑り台の下に戻り、やがて見えなくなった。すると、公園の出口がはっきりと見えるようになった。
「美咲、走るよ!」
全力で公園を出ると、突然、日常の音が戻ってきた。鳥の声、車の音、遠くの話し声。時計は4時10分を指していた。
その夜、美咲は何事もなかったかのように眠りについた。しかし、私は眠れなかった。あの公園で何が起きていたのか、理解できなかったからだ。
翌日、勇気を出して近所の古くからの住民に尋ねてみた。すると老人は暗い表情で語り始めた。
「あの公園はね、昔、事故があったんだよ。20年ほど前、午後4時頃、遊んでいた女の子が突然姿を消した。誰も見ていなかったが、滑り台の近くに彼女の靴だけが残されていたそうだ。それ以来、午後4時になると…」
老人は言葉を切った。そして、私の目をじっと見つめながら言った。
「約束したなら、守らなきゃならんよ。あの子は約束を破った人を許さない」
その日から、私たちは別の公園に行くようになった。そして私は、毎日午後4時になると、どこにいても不思議な感覚に襲われるようになった。誰かに見られているような、誰かが私の名前を呼んでいるような…
そして時々、公園の前を通りかかると、滑り台の上に小さな影を見かけることがある。いつか私は、あの約束を果たさなければならないのだろうか。それとも一生、あの子に見つめられ続けるのだろうか。
今日も午後3時55分。時計の針が、ゆっくりと、しかし確実に4時に近づいていく。