私が一人暮らしを始めたのは三月のことだった。東京郊外のマンションは築15年ほどだが、リフォーム済みで家賃も手頃だった。職場にも近いし、これ以上の物件は望めないと思った。
引っ越して最初の一週間は何もなかった。平凡で静かな日々。それがいつからか、おかしなことに気づき始めた。
最初に違和感を覚えたのは、仕事から帰ってきた夜だった。玄関のドアを開け、部屋に入ると、トイレの電気がついていた。「朝、消し忘れたのか」と思い、特に気にせず消した。
次の日も同じことが起きた。確かに朝、消してから出たはずなのに、帰宅するとトイレの電気がついている。節電を心がけていた私にとって、これは少し気になることだった。
「電気のスイッチの接触不良かな」と考え、数日は様子を見ることにした。
しかし状況はさらに奇妙になっていった。ある夜、リビングでテレビを見ていると、突然トイレの電気が消えた。「え?」と思い、確認しに行くと、確かに消えている。しかも、私が帰宅したときはついていたはずだ。
「気のせいか」と思いながらもスイッチを入れ、再びリビングに戻った。すると15分後、またトイレの電気が勝手に消えた。今度は確かに見た。誰かが消したように、パッと消えたのだ。
次の日、管理会社に連絡を入れた。「トイレの照明が勝手に点いたり消えたりするんです」と伝えると、「配線の問題かもしれませんね」との返事で、その日のうちに電気工事業者が来てくれることになった。
業者の男性は丁寧に配線をチェックし、スイッチも点検してくれた。結果は「特に異常はありません」というものだった。念のためスイッチを新しいものに交換してもらったが、彼が帰った後もトイレの電気は気まぐれに点いたり消えたりした。
一週間が過ぎた頃、さらに不可解なことが起きるようになった。夜中、トイレの電気がついていることに気づき確認に行くと、消えている。しかし部屋に戻ると、また点く。まるで誰かが私の動きを見て、意図的に操作しているかのようだった。
恐怖を感じ始めた私は、友人に相談した。「防犯カメラをつけてみたら?」という彼のアドバイスに従い、小型のカメラを購入した。トイレの天井に目立たないように設置し、スマホで映像を確認できるようにした。
最初の二日間は何も映らなかった。電気は相変わらず勝手に動くのに、カメラには原因となるようなものは映っていなかった。
三日目の夜、私は早めに眠りについた。深夜2時頃、スマホの通知音で目が覚めた。防犯カメラが動きを検知したのだ。恐る恐るアプリを開き、映像を確認する。
トイレの電気はついていた。そして、便座に誰かが座っているようだった。
画面をズームインすると、そこには薄暗く霞んだ人影が映っていた。形はあるのに、透き通っていて、便座に腰掛けている。顔はなく、ただぼんやりとした輪郭だけが見える。私は恐怖で凍りついた。
映像を見続けていると、その影はゆっくりと立ち上がり、便器に向かって何かをした後、手を洗うような動作をして、そして電気を消した。全ての動作が人間そのものなのに、そこにいるのは確かに人ではない何かだった。
次の日、私は不動産屋に駆け込み、契約解除の相談をした。「どうしても住めなくなった」と説明すると、担当者は少し困った顔をしたが、「実は、あの物件は過去にも同じような理由で退去された方がいらっしゃるんです」と小声で教えてくれた。
「前の住人は、トイレの電気が勝手に点いたり消えたりすると言っていました。でも調査しても原因はわからず…」
その後、私は違約金を払ってでもそのマンションを出ることにした。引っ越しの日、最後に部屋を見回していると、トイレから水を流す音が聞こえた。誰もいないはずのトイレから。
新しい住居に移ってからは、不思議な現象は一切起きていない。時折あの映像を思い出し、背筋が寒くなることがある。あの影は何だったのか。前に住んでいた人の霊だったのか、それとも別の何かだったのか。
真相はわからないままだ。ただ一つ確かなのは、あのマンションのトイレには、私の知らない「誰か」が一緒に住んでいたということ。そして今も、新しい住人と一緒に暮らしているのかもしれない。
私は今でも、トイレに入るたび、ドアの向こうに誰かいないか確認してしまう。そして電気をつけると、鏡に映る自分の姿が、あの薄暗い人影に見えることがある。