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エレベーターの9階ボタン

エレベーター

その会社に入社して半年が経っていた。名前は鈴木貴之。28歳。IT関連の中小企業で、システムエンジニアとして働いている。会社のビルは8階建てで、うちの会社は5階から8階までを借りていた。

入社当初から気になっていたことがあった。社内には「深夜残業は命取り」というおかしな言い伝えがある。残業自体は珍しくないこの業界で、特に深夜を避ける理由はないはずだ。しかし先輩たちは口を揃えて言う。「どうしても必要なら、23時までには帰れ」と。

それが都市伝説だと思っていた。そう思っていたのは、あの日までは。


プロジェクトの納期が迫っていた火曜日の夜。私は一人でデバッグ作業を続けていた。時計を見ると23時15分。先輩たちの言葉を思い出したが、あと少しで終わると思い、作業を続けた。

「やっと終わった…」

時計は0時を回っていた。疲れた体を引きずりながらエレベーターホールへ向かう。そこで見たものは、いつもと変わらないエレベーターだった。ボタンを押し、扉が開くのを待った。

中に入り、1階のボタンを押そうとして、私は凍りついた。

操作パネルには「9」のボタンがあった。

「おかしいな…」

確かこのビルは8階建てだ。建物の外観からしても、9階なんてない。単なる表示ミスかと思ったが、しっかりとしたボタンだった。好奇心に負け、その「9」のボタンを押してしまった。

エレベーターは上昇し始めた。8階を通り過ぎ、そして「9」の表示が点灯した。扉が開くと、そこには薄暗い廊下が広がっていた。蛍光灯が一つだけ点滅していて、不気味な空間を作り出していた。

「どういうことだ…」

足を踏み出す前に、ポケットのスマホが振動した。会社の緊急連絡用チャットだ。見ると、送信者不明のメッセージが届いていた。

『9階には行くな』

冷や汗が背中を伝った。しかし、好奇心が勝った。一歩、廊下に足を踏み出した。

廊下の奥には一つのドアがあった。近づくと、そのドアには「システム管理室」と書かれていた。ドアノブに手をかけたとき、背後で何かが動く気配がした。振り返ると、廊下の端に人影が見えた。

「誰かいますか?」

返事はない。人影はゆっくりと近づいてきた。顔が見えないほど薄暗い。私は恐怖で動けなくなった。その影は私のすぐ前で立ち止まった。

「帰りなさい」

かすれた声で言った。その声は人間のものとは思えなかった。

「ここにいてはいけない」

そう言うと、その影は私の肩を掴み、エレベーターの方へ押し戻した。パニックに陥った私は、抵抗する間もなくエレベーターに押し込まれた。ドアが閉まる瞬間、その影の顔がはっきりと見えた。

それは自分自身の顔だった。しかし、目は虚ろで、肌は灰色、口元からは黒い液体が滴り落ちていた。


翌朝、どうにか会社に出勤した私は、昨夜の出来事が夢だったのではないかと思った。しかし、デスクに着くと、パソコンの画面に見覚えのないウィンドウが開いていた。

『システム管理室からのアクセス記録 – 00:23』

冷や汗が噴き出した。昨夜、確かに9階で「システム管理室」というドアを見た。しかし、そんな部屋は会社にはないはずだ。

その日から、職場で奇妙なことが続いた。同僚たちが私を見る目が変わった。皆、私と目を合わせようとしない。一人だけ勇気を出して聞いてみた先輩は、こう言った。

「お前、9階に行ったのか?」

驚いて黙り込む私に、先輩は続けた。

「9階に行った奴は、必ず変わる。もう元には戻れない」

それから数日後、深夜残業を終えた同僚の山田が変わった。彼は突然、無口になり、目が虚ろになった。そして彼のパソコンからも同じ記録が見つかった。

『システム管理室からのアクセス記録』

ある日、山田が私のデスクに近づいてきた。彼は小声で言った。

「9階で何を見た?」

答える前に、彼は続けた。

「私たちはもう、向こう側の人間だ」

その日から、私と山田は社内チャットで奇妙なメッセージを送り始めた。宛先不明の警告メッセージ。

『9階には行くな』

私たちのそんな行動を不審に思った上司は、ある日私たちを呼び出した。

「君たち、最近おかしいぞ。何かあったのか?」

説明できるはずもなかった。しかし上司は諦めず、深夜まで私たちと話し合おうと言い出した。

23時を過ぎた頃、上司は「エレベーターの9階ボタン」の噂を聞き出した。半信半疑の彼は、実際に確かめようと言った。

「そんなものがあるなら、見てみよう」

三人でエレベーターに乗り込んだ。時計は0時を指していた。操作パネルには確かに「9」のボタンがあった。

上司は笑った。「何だ、あるじゃないか。行ってみよう」

私と山田は必死に止めようとしたが、上司はボタンを押した。エレベーターは上昇し始めた。

9階で扉が開くと、そこには前と同じ薄暗い廊下があった。上司は興味津々で一歩踏み出した。

その瞬間、廊下の奥から複数の人影が現れた。全員が虚ろな目をして、灰色の肌をしていた。彼らは一斉に声を上げた。

「新しい仲間だ」

私と山田は恐怖で声も出なかった。上司は驚きのあまり後ずさり、私たちの方へ戻ろうとした。しかし遅かった。人影たちは上司を取り囲み、システム管理室へと連れ去った。

扉が閉まる瞬間、上司は振り返り、恐怖に歪んだ顔で叫んだ。

「助けてくれ!」

しかし私たちにできることは何もなかった。エレベーターのドアが閉まり、私たちは1階へと降りていった。


翌日、上司は出勤してきた。しかし、彼はもう以前の彼ではなかった。目は虚ろで、話し方も不自然だった。そして彼のパソコンからも同じ記録が見つかった。

『システム管理室からのアクセス記録』

会社では徐々に「9階に行った人」が増えていった。彼らは皆、同じ特徴を持っていた。虚ろな目、無感情な表情、そして社内チャットで送り続ける同じメッセージ。

『9階には行くな』

私は調査を始めた。このビルの過去を調べると、興味深い事実が見つかった。10年前、このビルは実は9階建てだった。しかし9階で火災が起き、多くの死者が出た。その後、ビルは改装され、公式には8階建てとなった。

しかし、深夜になると、9階は「戻ってくる」のだ。そして、そこに足を踏み入れた者は、かつてその火災で亡くなった人々の「代わり」となる。彼らは生きているが、魂はもはやこの世界のものではない。

私は決心した。この状況を終わらせるために、もう一度9階へ行くことにした。

深夜0時、エレベーターに乗り込み、9のボタンを押した。扉が開くと、そこには大勢の「彼ら」がいた。同僚たち、上司、そして私が以前見た自分自身の姿もいた。

彼らは口々に言った。「帰りなさい」「ここにいてはいけない」

しかし私は引き下がらなかった。システム管理室のドアに向かって歩き出した。彼らは私を止めようとしたが、私は振り切った。

ドアを開けると、そこには巨大なサーバールームがあった。中央には古いメインフレームコンピューターがあり、そのスクリーンには無数のコードが流れていた。

そのスクリーンに近づくと、あるメッセージが表示された。

『システム再起動を実行しますか? Y/N』

迷わずに「Y」を入力した。

突然、部屋中の機械が唸りを上げ、明かりが点滅し始めた。地鳴りのような音が響き、建物全体が揺れた。

気がつくと、私はエレベーターの中にいた。表示は「1」を指していた。扉が開き、外に出ると、朝の光が差し込んでいた。


それから一週間後、会社に戻ると、すべてが元通りになっていた。上司も同僚も普通に振る舞っていた。9階に行ったはずの人々も、何事もなかったかのように仕事をしていた。

しかし、彼らの記憶からは「9階」の出来事が完全に消えていた。私だけが覚えていた。

ある日、終業後に上司が私を呼び出した。

「実はな、会社が移転することになったんだ。来月から新しいビルだ」

安堵のため息をついた私に、上司は続けた。

「新しいビルは最新設備が整っていて、地下駐車場まである12階建てだ。楽しみだろう?」

私は凍りついた。12階建て?私の知る限り、この街に12階建てのビルはない。9階と同じく、「存在しないはずの階」が、また私たちを待っているのではないか。

翌日、社内チャットを開くと、送信者不明のメッセージが届いていた。

『12階には行くな』

それを見た瞬間、私は理解した。これは終わりではない。ただ場所が変わるだけで、あの恐怖は私たちを追いかけてくる。そして私は、これからも警告を送り続けなければならない。

なぜなら、私ともう一人の私が、いつも見ている。