夏休み前の放課後、理科室の掃除当番だった僕は、窓から差し込む夕日に照らされた薬品棚の埃を拭いていた。理科教師の浅野先生は早めに帰ったらしく、教室には僕一人だけが残されていた。
「あと少しで終わりだ」
そう思いながら薬品棚の各段を丁寧に拭いていると、一番下の棚の奥に、今まで気づかなかった小さな引き出しのような取っ手が見えた。三年間この高校で学んできたが、その引き出しの存在に気づいたのは初めてだった。
「これ、何だろう?」
好奇心に駆られ、僕は引き出しに手をかけた。最初は固く閉じられていたが、何度か引っ張るとついに開いた。中には古ぼけたノートが一冊。表紙には「実験日誌」とだけ書かれていた。名前も日付も記されていない。
ノートを開くと、黄ばんだページには薄い緑色のインクで細かな文字が書かれていた。日付は今から約30年前。僕の父親が高校生だった頃だ。
『実験1:人体の可能性について』
そこから記された内容は、通常の理科実験とは明らかに異なるものだった。人間の意識や精神力、そして「別の次元への干渉」といった不可解なテーマについての記録。ページをめくるにつれ、実験内容はどんどん異質なものになっていった。
『実験8:精神分離の検証』 『実験12:意識の移植と連鎖』
さらに読み進めると、実験に参加した生徒たちの名前も書かれていた。名前の横にはそれぞれ「成功」「失敗」「中断」といった評価が記されている。そして「失敗」と書かれた名前の多くには、赤いインクで線が引かれていた。
背筋に冷たいものが走った。これはただの学生実験ではない。何かとても危険なことが、この理科室で行われていたのではないか。
最後のページに目を向けると、そこには今までとは違う筆跡で一行だけ書かれていた。
『次は君の番だ』
慌ててノートを閉じた僕は、急いで引き出しに戻そうとした。しかし手が震え、ノートを落としてしまう。床に広がったノートからは、一枚の古い写真が滑り出た。
そこには30年前の理科室と思われる場所で、10人ほどの生徒たちが写っていた。中央には今より若い浅野先生の姿。しかし、よく見ると生徒たちの顔は全て不自然にぼやけていた。写真を裏返すと、名前のリストがあり、それぞれの名前に日付が記されていた。
そのとき、理科室のドアが開く音がした。
「まだ掃除してたのか。熱心だな」
振り返ると、浅野先生が立っていた。先生は僕の手元を見て、表情が一瞬硬くなった。
「それは…どこで見つけた?」
僕は震える声で答えた。「薬品棚の奥の引き出しに…」
浅野先生はゆっくりと近づいてきた。笑顔を浮かべているが、その目は笑っていなかった。
「実は、あの実験はまだ続いているんだ。継続的な検証が必要でね。君のお父さんも、かつて協力してくれた一人だった」
僕は息を呑んだ。父は高校時代に事故で記憶障害になったと聞いていた。そして、なぜか理科の話題になると不自然に黙り込むことがあった。
「実はね、人間の意識というのは驚くほど可塑性があってね。ある”場所”から別の”場所”へ移すことができる。もちろん、その過程でいくつかの犠牲は避けられないけどね」
浅野先生は薬品棚から小さな瓶を取り出した。中には緑色の液体が入っている。
「さあ、君も実験に協力してくれるね?ノートがそう予告している通り、君は選ばれたんだよ」
逃げようとした僕の腕を、先生は驚くほどの力で掴んだ。その瞬間、教室の電気が消え、一瞬だけ浅野先生の顔が別の何かに見えた気がした。まるで複数の顔が重なっているような…
「大丈夫、痛くはないよ。ただ、君の意識が一時的に”移動”するだけだ。そしてまた別の誰かが君の番を引き継ぐ。それが実験日誌に記された約束事なんだ」
緑色の液体が入った注射器が僕の腕に近づいてくる。逃げられない。叫ぼうとしても声が出ない。
次の日、清掃担当の別のクラスメイトが薬品棚の奥の引き出しを見つけた。中には一冊のノートと一枚の写真。写真には僕を含む11人の生徒の姿があったが、僕の顔だけがぼやけていた。
そしてノートの最後のページには、新たな一行が書き加えられていた。
『次は君の番だ』