MENU

退院したはずの人

病室

私は都内の大きな総合病院で夜勤の看護師として働いて5年目になる。病院の夜は独特の静けさがある。昼間は忙しく動き回る医師や看護師たちも少なくなり、面会客もいなくなる。そんな静寂の中、時折聞こえる患者さんの咳や寝返りの音が、妙に鮮明に響く。

私の担当は3階東病棟。主に内科系の患者さんが入院している。先月から続く人手不足で、この夜勤も私ともう一人の看護師で回している状態だった。

その日も普通の夜勤だった。21時の巡回を終え、ナースステーションで記録をつけていると、同僚の村上さんが声をかけてきた。

「あのさ、307号室のことなんだけど」

私は顔を上げた。307号室といえば、今朝退院した佐伯さんの部屋だ。70代の男性で、軽い肺炎で2週間ほど入院していた。

「佐伯さん?今朝退院したよね」

「そうそう。だから空きベッドになってるはずなんだけど…」村上さんは少し言葉を選ぶように間を置いた。「さっき巡回したとき、なんか変な感じがしたんだよね」

「変な感じ?」

「うん…なんていうか、人の気配がするっていうか」

私は眉をひそめた。「気のせいじゃない?今日の新規入院はなかったし、明日の予定もまだ入ってないはずだけど」

「そうなんだよね。でも…」村上さんは言葉を濁した。「ちょっと一緒に見に行ってくれない?」

私たちは307号室へ向かった。ドアを開けると、確かにベッドは空のままだった。シーツは新しく交換され、テーブルの上も綺麗に片付けられている。窓は閉まっていて、カーテンが夜風でわずかに揺れていた。

「ほら、何もないよ」私は言った。

村上さんはベッドの周りをゆっくり歩き、部屋の隅々まで目を凝らした。「そうだね…気のせいだったのかな」

私たちはナースステーションに戻った。夜勤の仕事に戻るうちに、307号室のことは忘れかけていた。

午前0時を過ぎ、患者さんたちがほとんど眠りについた頃、再び巡回に出た。すべての部屋を回り、307号室の前まで来たとき、ふと足を止めた。ドアの向こうから、かすかに聞こえる…呼吸音?

耳を澄ませば、確かに誰かの寝息のような音が聞こえる。私はゆっくりとドアを開け、中を覗いた。

薄暗い病室の中、ベッドには誰も寝ていない。しかし、その空のベッドから、明らかに人の呼吸する音が聞こえてくる。私の背筋に冷たいものが走った。

「おかしい…」

ベッドに近づくと、枕の辺りがわずかに凹んでいるように見えた。まるで誰かが頭を乗せているかのように。

私は慌ててナースステーションに戻り、村上さんに報告した。

「やっぱり何かあるんだ…」村上さんは顔色を変えた。「実は昨夜も同じことがあったの。でも朝になったら何もなかったから、気のせいだと思って…」

私たちは病棟責任者の内線電話番号を探し出し、状況を報告した。しばらくして病棟責任者と警備員が駆けつけたが、307号室を調べても何も異常は見つからなかった。呼吸音も消えていた。

「何かの設備音を聞き間違えたのかもしれませんね」と警備員は言った。「古い建物ですから、配管の音が人の息づかいに聞こえることもあります」

納得のいく説明だった。私たちも少し安心し、再び業務に戻った。

次の夜も私は夜勤だった。307号室には新しい患者さんが入院していなかったため、まだ空室のままだ。

深夜の巡回で、再びその部屋の前を通ったとき、またあの呼吸音が聞こえた。今度はさらに明確に。

恐る恐るドアを開けると、空っぽのはずのベッドに、シーツが人の形にわずかに盛り上がっていた。はっきりと人が横たわっているように見える。しかし、そこに実際の人影はない。

私は震える手で照明スイッチを入れた。明るくなった部屋で見ると、ベッドは元通り何もない状態だった。シーツの盛り上がりも消えている。幻覚だったのだろうか。

その夜、勇気を出して監視カメラの映像をチェックすることにした。病棟の廊下に設置されたカメラには、各部屋の出入り口が映っている。

22時30分頃の映像を再生すると、307号室の前を通る人影が映った。よく見ると、それは佐伯さんだった。退院したはずの彼が、病院着姿で自分の部屋に向かって歩いていく。ドアを開け、中に入っていった。

私は震える手で村上さんを呼んだ。二人で映像を見直す。間違いない。それは確かに佐伯さんだった。

「でも、佐伯さんは退院したはずでは…?」村上さんが震える声で言った。

私たちは急いで患者記録を確認した。佐伯達郎、73歳。入院期間:4月5日〜4月19日。退院日:4月19日。すべて正しく記録されている。

恐る恐る307号室に向かい、ドアをノックした。返事はない。

「佐伯さん…?」

ドアを開けると、部屋は暗く、誰もいなかった。しかし、ベッドのシーツには明らかに誰かが横になった跡がついていた。

次の日、日勤の看護師長に一部始終を報告した。看護師長は眉をひそめ、佐伯さんの家族に連絡を取ることにした。

数時間後、看護師長から衝撃的な知らせが届いた。

佐伯さんは退院の翌日、自宅で亡くなっていたのだ。家族によると、佐伯さんは退院の夜、「病院に忘れ物をした」と言い残して外出し、その後帰宅したが、朝には冷たくなっていたという。

それから数日後、清掃スタッフが307号室のベッドの下から一枚の写真を見つけた。それは佐伯さんと思われる若い頃の家族写真だった。裏には「忘れ物」と小さく書かれていた。

あれから一ヶ月が過ぎた。307号室には新しい患者さんが入院している。しかし、今でも深夜の巡回時には、その部屋の前を通るのが怖い。時折、廊下の監視カメラには、病院着姿の佐伯さんが映ることがあるという。いつも同じ時間に、同じ足取りで、307号室へと向かっていく。

彼は自分が退院したことを、まだ知らないのかもしれない。

あるいは、本当の「退院」とは、この世を去ることなのかもしれない。

私は今でも夜勤のたびに、307号室からの呼吸音に耳を澄ませる。そして時々、確かに誰かがいるような気配を感じる。監視カメラには映らない影が、廊下の端を歩いていくのを見る気がする。

退院したはずの人は、まだこの病院のどこかにいる。そして、自分の居場所を探し続けているのだろう。