紗季が最初に「放課後の鏡」の噂を聞いたのは、梅雨の終わりごろだった。うだるような暑さの中、放課後の教室に残っていた友人たちが小声でひそひそと語り合っていた。
「知ってる?三階の女子トイレの鏡のこと」と友人の美咲が言った。「放課後の六時十七分に、鏡の前で『来て、見て、連れて行って』と三回唱えると、自殺した女の子が映るんだって」
「ただの都市伝説でしょ」と紗季は肩をすくめた。
「でも、先週の金曜日に一年の子が試して、翌日から学校に来てないって」と別の友人が言った。「誰も行方がわからないらしいよ」
紗季は信じなかったが、好奇心は消えなかった。噂によれば、三年前に屋上から飛び降りた三年生の幽霊が、鏡の中から現れるという。鏡に映る少女は、自分と同じ運命をたどる者を求めているのだと。
その金曜日、放課後の部活動が終わった頃、紗季は三階の女子トイレに向かっていた。友人たちは怖がって帰ってしまったが、紗季は一人で確かめようと決めていた。
蛍光灯がちらつく薄暗いトイレに入ると、空気が重く冷たく感じられた。スマートフォンの時計は6時15分を指している。紗季は大きな鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめた。
心臓が早鐘を打つ中、紗季は小声で呟いた。 「来て、見て、連れて行って」 「来て、見て、連れて行って」 「来て、見て、連れて行って」
時計が6時17分を指した瞬間、蛍光灯が瞬き、一瞬だけ消えた。
紗季は鏡に映る自分の姿を見つめ続けた。変化はない。「やっぱり嘘だったんだ」と思った瞬間、鏡に映る自分の後ろに、制服を着た少女の姿がぼんやりと浮かび上がった。
少女は長い黒髪を垂らし、顔を俯いていた。紗季は恐怖で固まり、振り向くこともできなかった。
「助けて」
少女の声は水の中から聞こえるように遠かった。
「私を見て」
紗季が震える視線を少女に向けると、少女はゆっくりと顔を上げた。血の涙を流す目が、紗季をじっと見つめていた。
「連れて行って」
少女の手が鏡の中から伸び、紗季の腕をつかんだ。冷たい感触が紗季の体を貫いた。
「やめて!」紗季は叫んだが、声は鏡の中に吸い込まれていった。少女の顔がゆっくりと近づいてくる。紗季は鏡の表面に引き寄せられるように前に進んだ。
その瞬間、トイレのドアが開く音がした。
「誰かいるの?」声がした。それは遅くまで残っていた英語教師の村田先生だった。
紗季は我に返り、鏡から一歩後ずさった。鏡に映る少女の姿は消えていた。
「紗季さん?こんな時間までいたの?」村田先生が心配そうに声をかけた。
「はい…ちょっとトイレを借りただけです」と紗季は動揺を隠しながら答えた。
次の月曜日、紗季は学校で奇妙な噂を耳にした。三階の女子トイレの鏡に何かが書かれていたというのだ。
放課後、紗季は再び三階のトイレに向かった。鏡の表面には、かすかに文字が浮かび上がっていた。
「私の名前は川島美月。いじめが辛くて、この世界から逃げ出した。でも、誰も気づいてくれなかった。誰も助けてくれなかった。だから、誰かに気づいてほしい。誰かに見てほしい。誰かに…連れて行ってほしい」
紗季は胸が痛むような気持ちになった。彼女は図書室に行き、三年前の学校新聞を調べた。そこには小さな記事があった。「本校三年生、不慮の事故で死亡」。川島美月という名前と、小さな写真。彼女の目は、何かを懇願しているようだった。
図書室から出た紗季は、偶然村田先生とすれ違った。
「紗季さん、まだ学校にいたの?」
「先生、川島美月さんのことを覚えていますか?」紗季は突然尋ねた。
村田先生の表情が曇った。「どうして彼女のことを?」
「鏡に…」紗季は言いかけて止まった。「ちょっと気になって調べてみただけです」
村田先生は深いため息をついた。「美月さんは私のクラスの生徒だった。彼女はいじめられていたんだ。私も気づいていたけど、適切に対応できなかった…」
その夜、紗季は決心した。次の日、彼女は学校で噂を広め始めた。川島美月がいじめられていたこと、誰も助けなかったこと、そして彼女の死が事故ではなかったことを。
一週間後、学校は騒然となった。昔美月をいじめていた生徒たちの多くが、奇妙な体験をするようになったのだ。トイレの鏡に美月が映る、夜中に「見て」という声が聞こえる、制服の袖を引っ張られる感覚がある…。
放課後、紗季は再び三階のトイレを訪れた。鏡の前に立ち、静かに語りかけた。
「美月さん、もう大丈夫。みんなが知ったよ。あなたの気持ち、伝わったよ」
鏡の表面がゆらめき、美月の姿が浮かび上がった。今度は血の涙はなかった。少女はかすかに微笑んだ。
「ありがとう」その声は穏やかだった。「でも、まだ終わってない」
「何が?」紗季は尋ねた。
「真実を知ったら、私を追いかけるの?」美月の目が悲しげに潤んだ。
その夜、紗季は村田先生の家を訪ねた。ドアを開けた先生の表情は驚きに満ちていた。
「紗季さん?どうしたの、こんな夜に」
「美月さんの死について、本当のことを知りたいんです」
村田先生の顔から血の気が引いた。「どういう意味?」
「先生は美月さんがいじめられていることを知っていたんですよね。でも、なぜ止めなかったんですか?」
長い沈黙の後、村田先生は部屋に紗季を招き入れた。そこには、川島美月の写真が飾られていた。
「私は…彼女を助けられなかった」村田先生の声は震えていた。「いえ、助けなかったんだ。彼女が屋上に向かうのを見たのに…」
翌日、村田先生は職員会議で全てを告白した。美月のいじめを知りながら見て見ぬふりをしていたこと、彼女が死ぬ直前に助けを求めていたのに無視したことを。
その夜、紗季が三階のトイレを訪れると、鏡に映る美月は穏やかな表情をしていた。
「もう、誰も連れて行かないよ」美月は微笑んだ。「真実を見てくれてありがとう」
鏡の表面がゆらめき、美月の姿は消えていった。トイレを出ようとした紗季の背後で、かすかな足音が聞こえた。振り返ると、そこに村田先生が立っていた。
「美月さんに会いに来たんだ」先生は虚ろな目で言った。「許してもらいたくて」
「もう彼女はいません」紗季は言った。「真実が明らかになって、安らかになれたんだと思います」
村田先生はゆっくりと鏡の前に立った。「来て、見て、連れて行って」と呟く声が聞こえた。
紗季が慌てて止めようとした瞬間、鏡の表面が水面のように揺れ、そこに美月の姿が現れた。村田先生は恐怖に凍りついた。
「先生」美月の声は冷たかった。「あなただけは、許せない」
紗季が叫ぶ間もなく、鏡の表面が村田先生を飲み込んでいった。一瞬のことだった。トイレには紗季一人だけが残された。
次の日、村田先生の失踪が報告された。誰も彼の行方を知らなかった。
数ヶ月後、三階の女子トイレは改装され、古い鏡は取り外された。しかし、時々、放課後の六時十七分になると、廊下を歩く誰かが、トイレから聞こえる二人の声を耳にすることがある。
「来て」「見て」「連れて行って」
噂は噂のまま、学校の七不思議として語り継がれることになった。真実を知るのは紗季だけ。そして彼女は、決して放課後のトイレには近づかなくなった。どこかで、美月と村田先生が永遠に向き合っていることを知っていたから。