秋の夕方、桜ヶ丘高校の音楽室に響く美しい合唱の音色。しかし、その調べの奥には、誰も気づかない不協和音が潜んでいた。
「はい、もう一度。今度はもっと気持ちを込めて」
音楽教師の田中先生が指揮棒を振り上げる。放課後の合唱部練習は、いつものように厳しく、そして熱気に満ちていた。部員たちは楽譜を見つめ、息を合わせて歌声を響かせる。
その中で、私、佐藤美咲は何か違和感を覚えていた。視線の端に映る、音楽室の壁に掛けられた古い姿見。それは学校創立当時からあるという年代物で、縁は錆び、鏡面には細かな傷が無数に走っていた。
最初は気のせいだと思った。合唱中、その鏡を見ると、自分が映っているのは当然だった。しかし、よく見ると、鏡の中の私は少し違う動きをしているような気がした。歌詞を口ずさむタイミングが微妙にずれている。手の位置も、実際の私とは異なっていた。
「美咲、どうしたの?声が出てないよ」
隣の友人、裕子に注意された。慌てて歌に集中しようとしたが、どうしても鏡に目が行ってしまう。そして、その日の練習が終わる頃、私は確信した。
鏡の中の私は、実際の私と違う動きをしている。
次の日の練習でも、同じことが起こった。今度は、鏡の中の私が小さく手を振っているのが見えた。実際の私は楽譜を持っているだけなのに、鏡の中では指揮をするような仕草をしていた。
「おかしい…」
練習後、一人で音楽室に残り、鏡の前に立った。普通に見つめている分には、何の変哲もない自分の姿が映っている。しかし、歌い始めると、また鏡の中の私は独自の動きを始めた。
三日目、異変はさらに顕著になった。鏡の中の私は、まるで私たちとは違う曲を指揮しているように見えた。腕の振り方が激しく、表情も現実の私とは全く違っていた。恍惚とした、何かに取り憑かれたような表情だった。
「先生、あの鏡のこと、何か知ってますか?」
練習後、田中先生に尋ねてみた。先生は少し困ったような顔をした。
「ああ、あの姿見ね。実は昔から、いろいろな噂があるのよ。でも、迷信だから気にしちゃダメよ」
「どんな噂ですか?」
「昔、この学校の合唱部で、とても上手な指揮者がいたの。でも、その子は練習中に突然倒れて…それ以来、あの鏡には時々、その子の姿が映るって言われてるの」
血の気が引いた。私が見ているのは、その死んだ指揮者の姿なのだろうか。
四日目、私は意を決して、一人で音楽室に向かった。放課後の校舎は静まり返り、廊下を歩く足音だけが響いていた。音楽室の扉を開けると、夕日が差し込む中、あの鏡が壁に掛かっていた。
鏡の前に立ち、小さく歌い始めた。すると、鏡の中の私がまた動き始めた。しかし今度は、明らかに私に向かって何かを伝えようとしているようだった。口を大きく動かし、必死に何かを訴えかけている。
そして、ついにその瞬間が来た。
鏡の中の私の口の動きが、はっきりと言葉になって聞こえたのだ。
「代わって…よ…今度は…あなたが…中に…入って…」
声は、確かに私の声だった。しかし、どこか違う。もっと深く、もっと切実で、もっと絶望的だった。
私は後ずさりしようとしたが、足が動かなかった。鏡の中の私は、さらに激しく手を振り、口を動かし続けていた。
「ずっと…一人で…歌って…いるの…疲れ…た…」
鏡面に霧がかかり始めた。私の息でも、鏡の向こう側からの息でもない、別の何かによって。その霧の中で、鏡の中の私の輪郭がぼやけ、そして、別の人影が現れ始めた。
それは、昔この学校にいたという指揮者の少女だった。制服は古い型で、髪型も時代を感じさせるものだった。彼女は悲しそうな目で私を見つめ、そして口を開いた。
「私は…ずっと…ここで…歌い続けて…いるの…でも…もう…疲れた…あなたが…代わりに…」
その時、私は理解した。あの鏡は、単なる鏡ではなかった。それは、過去にここで歌っていた魂を閉じ込める牢獄だったのだ。そして今、その魂は、新しい歌い手を求めているのだった。
「いや…」
私は叫んだ。しかし、鏡からは強い引力が働いているような感覚があった。体が前に引っ張られていく。
「怖がらないで…一緒に…歌いましょう…永遠に…」
指揮者の少女の声が、優しく、しかし恐ろしく響いた。私の手が鏡面に触れそうになった瞬間、音楽室の扉が勢いよく開いた。
「美咲!」
裕子の声だった。彼女は私の様子を心配して、後を追ってきてくれたのだった。
「裕子…」
私は振り返った。その瞬間、鏡の魔力が弱まったような気がした。
「どうしたの?顔が真っ青よ」
裕子は心配そうに私に近づいた。私は鏡を振り返ったが、そこには普通の私の姿しか映っていなかった。しかし、よく見ると、鏡の奥で何かがうごめいているような気がした。
「ここから出よう」
私は裕子の手を握り、音楽室を出た。廊下に出ると、安堵の息が出た。しかし、背後から、かすかに歌声が聞こえるような気がした。
その夜、私は田中先生に電話をした。
「先生、あの鏡のこと、もっと詳しく教えてください」
「美咲ちゃん、何かあったの?」
私は今日の体験を話した。先生は長い沈黙の後、重い口調で話し始めた。
「実は、あの指揮者の子は、練習中に倒れたんじゃないの。ある日、一人で音楽室にいた時、あの鏡の前で意識を失って…病院に運ばれたけど、原因不明のまま亡くなったの。彼女が最後に残した言葉は『まだ歌い足りない』だった」
「それで、鏡に…」
「ええ。彼女の魂が、あの鏡に閉じ込められたのかもしれない。そして時々、新しい歌い手を探しているのかも」
翌日、私は学校に行くのが怖かった。しかし、逃げるわけにはいかなかった。音楽室に入ると、あの鏡がいつものように壁に掛かっていた。しかし、何かが違った。
鏡面に、小さな文字が浮かんでいた。まるで息で曇らせた鏡に指で書いたような文字だった。
「ありがとう」
それだけだった。そして、その日から、鏡の中に別の存在が現れることはなくなった。
しかし、時々、合唱の練習中に、どこからともなく美しいハーモニーが聞こえることがあった。それは、私たちの歌声に重なるように響く、もう一つの歌声だった。
きっと、あの指揮者の少女は、今でもあの鏡の中で歌い続けているのだろう。一人ではなく、私たちと一緒に。そして、いつかまた新しい歌い手を求めて、鏡の向こうから手を伸ばしてくるのかもしれない。
音楽室の古い姿見は、今日も静かに壁に掛かっている。その奥で、永遠の合唱が続いているとも知らずに。