田中は新車を購入したばかりだった。最新型のAI搭載カーナビが自慢で、音声認識機能も完璧、渋滞回避ルートも秒で計算してくれる優れものだ。営業の仕事で毎日運転する彼にとって、これほど頼もしい相棒はいなかった。
その日も、いつものように顧客回りを終えて家路についていた。午後九時を回り、国道沿いのコンビニで缶コーヒーを買って車に戻ると、カーナビの画面が青白く光っている。
「お疲れさまでした。自宅までご案内いたします」
いつもの合成音声が響く。田中は慣れた手つきでシートベルトを締め、エンジンをかけた。
「推奨ルートを計算中です」
しばらくして、画面に見慣れたルートが表示された。いつもの道だ。田中は安心してアクセルを踏み、夜の道路へと車を走らせた。
最初の十分間は何も問題なかった。カーナビは「まもなく右折です」「次の信号を直進してください」と的確に案内してくれる。しかし、いつもなら左折するはずの交差点で、突然カーナビが告げた。
「この先、右に曲がってください」
田中は首をかしげた。右に曲がると山道に入ってしまう。普段は通らない道だ。画面を見ると、確かに右折を示す矢印が点滅している。
「おかしいな」
田中は呟いたが、最新型のAIが計算したルートなら、きっと渋滞回避か何かの理由があるのだろうと思い直し、指示に従って右折した。
道は思ったより整備されていたが、街灯が少なく薄暗い。両側に鬱蒼とした森が迫り、対向車もほとんど通らない。カーナビは「このまま直進してください」と告げ続けるが、田中の記憶では、この道は行き止まりのはずだった。
「五百メートル先、左に曲がってください」
カーナビの指示で左折すると、さらに細い道に入った。舗装はされているものの、道幅は軽自動車がやっと通れるほどだ。木の枝が車体を擦る音がする。
「GPS信号が弱くなっています」という警告が画面に表示されたが、すぐに消えた。
田中は不安になってきた。この道を通ったことは確実にない。しかし、カーナビは自信満々に案内を続けている。
「二百メートル先、右に曲がってください」
右折した先は、さらに不気味な道だった。森がより深くなり、月明かりさえも木々に遮られて届かない。ヘッドライトが照らし出す範囲だけが、暗闇の中に浮かび上がる。
田中は車を停めて、スマートフォンでGPSアプリを確認しようとした。しかし、圏外マークが表示されている。こんな山奥でもないのに、なぜ電波が届かないのか。
「停車を感知しました。目的地まで継続してご案内いたします」
カーナビが告げた。田中は仕方なく運転を再開したが、心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。
「一キロメートル先、左に曲がってください」
道はますます奇妙になっていった。舗装は続いているのに、まるで人が通った形跡がない。草木も異様に生い茂り、時折、得体の知れない鳴き声が聞こえる。
そして、左折した瞬間、田中は息を呑んだ。
道の先に、古い鳥居が立っていた。朱色の塗装は剥げ落ち、木材は朽ち果てている。その向こうは深い闇で、何があるのか全く見えない。
「まもなく目的地です」
カーナビが告げた。田中は慌ててブレーキを踏む。
「おい、ちょっと待てよ。ここは俺の家じゃない」
しかし、カーナビは聞こえないかのように、「目的地に到着しました。お疲れさまでした」と告げた。画面には「案内終了」の文字が表示されている。
田中は冷や汗をかいていた。この場所がどこなのか、全く分からない。来た道を戻ろうとして振り返ると、後ろの道が見えない。まるで霧でもかかったように、ヘッドライトの光が途中で途切れている。
「ナビ、自宅までのルートを再検索してくれ」
田中は声に出して命令した。しかし、カーナビは無反応だ。画面をタッチしても、音声で呼びかけても、まるで電源が切れているかのように動かない。
パニックになりかけた田中は、車を降りて辺りを見回した。鳥居の向こうから、かすかに明かりが見える。人がいるかもしれない。道を聞けるかもしれない。
田中は恐る恐る鳥居をくぐった。
その瞬間、世界が変わった。
後ろを振り返ると、車はない。道もない。あるのは、古い神社の境内だけだった。本殿は崩れかけ、狛犬の顔は風化で原形をとどめていない。
「あ、あれ?」
田中は混乱した。確かに車でここまで来たはずなのに。カーナビに案内されて。
そのとき、境内の奥から人影が現れた。白い着物を着た女性だったが、顔が見えない。いや、顔があるべき場所に、何もない。
「お待ちしておりました」
女性が口を開いた。声は美しいが、どこか空虚で、魂が抜けたような響きがある。
「あなたも、案内されて来られたのですね」
田中は言葉を失った。案内されて?
「カーナビに、案内されて」
女性の言葉に、田中の血の気が引いた。
「ここは、迷い人が辿り着く場所です。現世と異界の境目。あなたのカーナビは、もう随分前から、この世のものではありませんでした」
田中は必死に記憶を辿った。そういえば、この車を買った中古車店の店主が、妙なことを言っていた。「前の持ち主は、ドライブ中に行方不明になったんです。車だけが山道で見つかって」
「気づくのが遅すぎました」
女性は続けた。
「あなたが最初に右折した瞬間、もう現世を離れていたのです。カーナビが示していた道は、この世には存在しない道。前の持ち主の魂が、後に続く者を案内するために、ナビゲーションシステムを乗っ取っていたのです」
田中の膝が震えた。では、自分はもう……。
「でも、安心してください」女性の声に、わずかな温かみが宿った。「ここで迷い続けるのは辛いでしょう。私たちが、あなたを案内いたします。次の迷い人を、あなたが案内する番です」
田中は叫ぼうとしたが、声が出なかった。体が軽くなっていく。意識が薄れていく。
最後に聞こえたのは、あの聞き慣れた合成音声だった。
「新しい案内者が登録されました。次回の案内準備を開始します」
翌朝、田中の車は山道の路肩で発見された。エンジンはかかったまま、ヘッドライトも点いている。しかし、運転席には誰もいなかった。
警察の調査では、カーナビの履歴に不可解な記録が残されていた。存在しない道路を通ったルートが、データとして保存されていたのだ。
その車は後に、中古車店に引き取られた。
店主は言った。「カーナビの調子がちょっと悪いんですが、安くしますよ」
そして今夜も、どこかで新しい持ち主が、その車のエンジンをかけている。
「お疲れさまでした。目的地までご案内いたします」
カーナビの合成音声が、静かな夜に響いている。