田中雄介は一人暮らしを始めてまだ半年だった。都内の1Kアパート、築20年ほどの古い建物だったが、家賃が安く、駅からも近いため迷わず決めた。隣人とのトラブルもなく、静かで住みやすい環境だと満足していた。
その夜も、いつものように午後11時頃にベッドに入った。エアコンの設定温度は22度。少し肌寒い10月の夜だったが、お気に入りの厚手の毛布があれば十分だった。その毛布は母親が買ってくれたもので、柔らかな肌触りと適度な重さが心地良く、いつも安眠を約束してくれる。
雄介は毛布を顎まで引き上げ、スマートフォンで明日の天気予報を確認してから枕元に置いた。部屋の電気を消し、カーテンの隙間から差し込む街灯の微かな光だけが、部屋を薄っすらと照らしている。
「明日は午前中から会議か…」
そんなことを考えながら、雄介は次第に意識を失っていった。
しかし、午前3時頃だろうか。突然の寒気で目が覚めた。身体が震えるほどの冷たさに、雄介は慌てて毛布を探った。ところが、さっきまで胸まで掛かっていたはずの毛布が、足元の方へずり下がっている。
「変だな…」
寝返りを打ったせいだろうと思い、雄介は毛布を引き上げようとした。しかし、毛布は思うように動かない。まるで誰かが反対側から引っ張っているかのように、重く、抵抗感がある。
雄介は薄目を開けて足元を見た。暗闇の中、毛布の端がゆっくりと、まるで生き物のように蠢いている。いや、それは錯覚だろう。眠気でぼんやりしているだけだ。
再び毛布を引き上げようとすると、今度はより強い力で引き戻された。雄介の心臓が急激に鼓動を早めた。これは明らかに異常だった。
「何だ、これは…」
毛布の向こう側、ベッドの足元から冷気が立ち上っているのが分かった。その冷気は異様で、まるで冷凍庫の中にいるような刺すような冷たさだった。エアコンの冷気とは明らかに質が違う。
雄介は身体を起こし、ベッドサイドライトのスイッチに手を伸ばした。しかし、その瞬間、毛布が一気に足元へ引きずられた。まるで見えない手が力強く引っ張ったかのように。
「やめろ!」
雄介は毛布の端を掴み、必死に引き戻そうとした。しかし相手の力は想像以上に強く、まさに綱引きの状態になった。毛布の向こう側から伝わってくる感触は、確実に何かの「手」だった。小さく冷たく、湿った感触。
恐怖で全身に鳥肌が立った。雄介は毛布を掴む手に力を込めた。しかし、相手の力も同じように強くなる。毛布が左右に揺れ、まるで生き物のように暴れている。
その時、ベッドの下から小さな声が聞こえた。
「さむい…さむいよ…」
か細い、子供の声だった。その声は明らかに毛布の下、ベッドの向こう側から聞こえてくる。
雄介の血の気が引いた。子供?この部屋に子供がいるはずがない。このアパートには子供が住んでいる家庭はない。管理人から聞いている。
「だれ…?」
雄介が震え声で問いかけると、声は続いた。
「さむい…おかあさん…」
毛布を引く力がさらに強くなった。雄介の手が滑り、毛布が一気に足元へ引きずられた。同時に、部屋の温度が急激に下がった。息が白くなるほどの寒さだった。
雄介は慌ててベッドサイドライトをつけた。部屋が明るくなると、毛布を引く力は急に弱くなった。しかし、足元を見ると、毛布の一部がベッドの下に引き込まれている。
「おい、出てこい!」
雄介は勇気を振り絞ってベッドから降り、床に膝をついてベッドの下を覗き込んだ。しかし、そこには何もない。ただの狭い空間があるだけだった。
毛布を引っ張り出すと、端の部分が濡れていた。しかも、異様に冷たい。まるで氷水に浸けられたかのように。
雄介は困惑した。夢だったのだろうか。しかし、濡れた毛布は現実だった。手に伝わる冷たさも、部屋の異常な寒さも。
その晩、雄介は一睡もできなかった。部屋のライトを点けたまま、椅子に座って朝を待った。
翌朝、雄介は改めてベッドの下を確認した。そして、ベッドの脚の近くで、それを発見した。
小さな手形だった。明らかに子供のものだった。しかも、まだ湿っていて、触ると氷のように冷たかった。
雄介は慌てて管理人に連絡した。しかし、管理人の話は雄介を更なる恐怖に陥れた。
「ああ、そういえば…このアパートの前には、古い一軒家が建っていたんです。取り壊しになったのは3年前でしたが、そこで火事があったんですよ。小さな男の子が一人…」
管理人の言葉が雄介の脳裏に響いた。火事。子供。そして、その場所に建てられたこのアパート。
「その子は…」
「ええ、残念ながら…。まだ5歳だったそうです。寒い12月の夜でした。」
雄介の手が震えた。昨夜の声を思い出した。「さむい…さむいよ…」
その日の夜、雄介は実家に帰った。そして二度と、そのアパートには戻らなかった。
後日、不動産会社から連絡があった。雄介の部屋の次の住人も、一週間で出て行ったという。理由は「夜中に毛布を引っ張られる」というものだった。
そのアパートの一室は、今でも空き部屋のままだという。家賃は相場より安く設定されているにも関わらず、住人が定着することはない。
管理人は知っている。あの小さな手形が、今でも時々現れることを。そして、寒い夜になると、どこからともなく子供の声が聞こえることを。
「さむい…おかあさん…」
その声は今夜も、誰もいない部屋に響いている。毛布を求めて。温もりを求めて。永遠に。