十一月の夕暮れ時、私は今日もいつものようにマンションの外階段を上がっていた。エレベーターが故障してから三週間。修理の見通しは立たず、十三階建ての九階にある我が家まで、毎日この薄暗い階段を使って帰らなければならない。
制服のスカートが冷たい風に揺れる。重いカバンを肩にかけ直しながら、四階、五階と段を踏みしめていく。この時間帯はまだ明るいはずなのに、マンションの影になって階段は薄暗く、蛍光灯の光が心もとない。
六階の踊り場を通り過ぎようとした時、ふと上を見上げてしまった。上の階から、誰かが見下ろしているような気がしたのだ。でも、そこには何もない。ただ、灰色のコンクリートの壁があるだけ。
気のせいだと自分に言い聞かせて、七階へ向かう。けれど、その視線は消えない。背中に、頭上に、誰かの気配を感じる。振り返ってみても、下の階には誰もいない。上を見上げても、同じように何もない。
「疲れてるのかな」
小さくつぶやいて、足音を響かせながら階段を上がり続けた。
次の日も、その次の日も、同じことが続いた。学校から帰る度に、誰かに見られているような感覚に襲われる。最初は六階辺りから始まって、上がっていくにつれて、その視線は強くなっていく。
三日目の夕方、私は思い切って友達の麻衣に相談してみた。
「それって、ストーカーじゃない?最近物騒だし、気をつけた方がいいよ」
麻衣の言葉に、背筋が寒くなった。確かに、最近は変質者の話をよく聞く。もしかしたら、誰かが私の帰宅時間を狙って、階段に潜んでいるのかもしれない。
その日の帰り道、私はいつもより注意深く階段を上がった。携帯電話の録画機能を起動させ、何かあったらすぐに証拠を残せるよう準備する。
五階、六階と上がっていく。やはり、あの視線を感じる。今度は確かに、上の方から。でも振り返っても、見上げても、誰もいない。
七階の踊り場で立ち止まった時、はっきりと足音が聞こえた。私の上、八階の辺りから。ゆっくりとした、重い足音。
「誰かいるの?」
声を掛けてみたが、返事はない。足音も止まった。でも、気配は消えない。むしろ、より強く感じる。まるで、息を潜めて私を見つめているような。
一週間が過ぎた頃、私はもう限界だった。毎日続く不気味な視線に、夜も眠れなくなっていた。母に相談しても、「疲れているのよ」と取り合ってもらえない。警察に相談するにも、具体的な被害があるわけではない。
金曜日の夕方、私は決心した。今度こそ、その正体を確かめてやる。
いつものように六階を過ぎた辺りで、例の視線を感じた。今度は逃げない。勇気を振り絞って、ゆっくりと上を見上げた。
八階の踊り場。手すりの向こうから、何かが顔を出していた。
それは人の形をしていたが、人ではなかった。顔があるべき場所には、ただ黒い空洞があるだけ。目も鼻も口もない、のっぺらぼうの真っ黒な影。でも確実に、私を見下ろしていた。
「あ…あ…」
声にならない悲鳴が喉から漏れる。足が竦んで動けない。その黒い影は、私が見上げていることに気づいたのか、ゆっくりと身を乗り出してきた。
顔のない頭部が、不自然に私の方へ向けられる。そして、手すりに長い腕を伸ばし始めた。その腕は人間のものよりもずっと長く、関節が逆向きに曲がっている。
「だめ、だめよ…」
ようやく足が動いた。私は階段を駆け下り始めた。後ろから、あの重い足音が追いかけてくる。でも振り返ってはいけない。きっと、あの黒い影が階段を下りてきているのだ。
七階、六階、五階…息が切れそうになりながら駆け下りる。その時、右手に持っていた手すりに、何か冷たいものが触れた。
氷のように冷たい、人の手。
「きゃあああ!」
今度こそ本当の悲鳴を上げて、私は階段を転げ落ちそうになりながら一階まで駆け下りた。マンションの入り口を飛び出し、息を切らせながら振り返る。
階段には、もう何もいなかった。
それから一ヶ月が過ぎた。私は結局、エレベーターが修理されるまで外階段を使わずに済むよう、友達の家に泊めてもらうことにした。あの日以来、あの黒い影を見ることはなかったが、マンションの階段を使う気にはどうしてもなれなかった。
十二月の半ば、ようやくエレベーターが修理された。久しぶりに自分の家で過ごせる安堵感と共に、私はあの出来事を忘れようとしていた。
でも、運命というのは皮肉なものだ。
エレベーターの点検作業をしていた業者の方が、思わぬことを教えてくれた。
「実は、このエレベーターが故障したのは事故が原因なんです」
男性作業員は、重い口調で続けた。
「二ヶ月前、住人の方がエレベーターに挟まれて亡くなられたんです。八階にお住まいだった大学生の方で…頭部を強く打って、顔の原型を留めないほどの…」
私の血の気が引いた。
「その方、最近まで階段でよく見かけたんですよ。九階のお嬢さんの後を、いつも心配そうに見守ってらして。でも事故の後は…」
作業員の言葉は続いたが、私の耳にはもう入ってこなかった。
あの黒い影。顔のない人影。八階から見下ろしていた何か。
それは私を怖がらせようとしていたのではなく、私を心配して見守ってくれていたのだ。毎日、薄暗い階段を一人で上がる私を、事故で亡くなってもなお、気にかけてくれていたのだ。
そして私が恐怖で逃げ出した時、階段で転ばないよう手すりに手を添えてくれた、あの冷たい感触。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
私は八階の踊り場に向かって、小さく頭を下げた。もう、あの気配を感じることはない。彼はきっと、私が安全にエレベーターを使えるようになったことを確認して、安らかに旅立ったのだろう。
でも時々、エレベーターに乗っている時、八階のボタンがひとりでに光ることがある。その時は決まって、温かい気配を感じるのだ。まるで「気をつけて帰りなさい」と言ってくれているような、優しい気配を。
春になって、新しい住人が八階に入居した。若い女性の一人暮らしだと聞いた。
彼女もきっと、時々不思議な体験をするだろう。でも怖がることはない。あの人は今でも、このマンションの住人たちを優しく見守ってくれているのだから。
ただ一つだけ気になることがある。
最近、新しく入居した彼女が、夜中にエレベーターではなく階段を使っているのを見かけるのだ。まるで、誰かに呼ばれているかのように、八階より上の階へと向かって行く姿を。
そして翌朝、彼女はいつも疲れ切った表情で、何かを思い出そうとするような困惑した顔をしている。
もしかしたら、あの優しい気配は一人だけではないのかもしれない。このマンションには、もっと多くの想いが宿っているのかもしれない。
でも、それもまた別の話。今日もエレベーターのボタンが温かく光って、私を安全に家まで運んでくれる。その優しさに包まれながら、私は毎日を過ごしている。