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包丁の音

台所

夕方六時を過ぎると、我が家の台所からは決まって包丁の音が響く。母の手慣れた動きが奏でるトントントンという規則正しいリズムは、私にとって帰宅を告げる安らぎの音だった。

その日も同じだった。大学から帰宅した私は、玄関で靴を脱ぎながら台所の方向に耳を向けた。いつものように、トントントンという心地よい音が聞こえてくる。母が夕食の準備をしているのだ。

「お帰り、智也」

母の声が台所から聞こえた。私は返事をしながら、リビングのソファに荷物を置いた。今日は疲れていた。ゼミの発表があり、その準備で前日はほとんど眠れなかったのだ。

包丁の音が続いている。トントントン、トントントン。その規則正しさが心地よくて、私はソファに身を沈めた。目を閉じると、子供の頃の記憶が蘇った。学校から帰ると、いつも母がこうして夕食を作ってくれていた。包丁の音は私にとって「お帰りなさい」の挨拶のようなものだった。

しかし、その時だった。

包丁の音が、突然変わった。

トントントンからトン、トトン、トン、トンという不規則なリズムに変わったのだ。まるで誰かが初めて包丁を握っているような、ぎこちない音だった。

私は目を開けた。おかしい。母は料理が得意で、包丁を扱う手つきも慣れたものだ。四十年以上台所に立ち続けてきた母の手が、こんな不安定な音を立てるはずがない。

トン、トトン、トン。

音はさらに不規則になった。そして、その音に混じって、かすかに別の音が聞こえてきた。

すすり泣き。

誰かが泣いているような、ひそやかな嗚咽が台所から聞こえてくるのだ。

私は身を起こした。心臓が早鐘を打っている。

「お母さん?」

返事はない。包丁の音だけが続いている。トン、トトン、トン。そして、すすり泣きも。

私は恐る恐る台所の方へ足を向けた。廊下を歩きながら、様々な可能性を考えた。母が何かの拍子に指を切ってしまったのだろうか。それで泣いているのだろうか。しかし、そんな大げさに泣くような人ではない。

台所の入り口で、私は足を止めた。

母は確かにそこにいた。まな板の前に立ち、包丁を握っている。しかし、その後ろ姿は何かがおかしかった。肩が小刻みに震えており、包丁を持つ手も不安定に動いている。

「お母さん、大丈夫?」

母は振り返った。その瞬間、私は息を呑んだ。

母の顔には涙の跡があった。しかし、表情は普通だった。いつもの優しい笑顔を浮かべている。

「あら、智也。どうしたの?」

「え、今、泣いてなかった?」

「泣く?何で?」

母は首を傾げた。そして、再びまな板に向かい、包丁を動かし始めた。今度はいつものトントントンという規則正しい音に戻っていた。さっきのすすり泣きも聞こえない。

私は混乱した。確かに聞こえたのだ。不規則な包丁の音と、誰かのすすり泣きを。しかし、今は何も聞こえない。

「疲れてるんじゃない?お風呂に入ってらっしゃい」

母の声は普通だった。いつもの母の声だった。

私は頭を振った。きっと疲労のせいで幻聴を聞いたのだろう。そう自分に言い聞かせて、部屋に戻った。

しかし、翌日も同じことが起こった。

大学から帰宅すると、台所から包丁の音が聞こえてくる。最初はいつものトントントンという音だったが、しばらくすると不規則なリズムに変わり、すすり泣きが混じってくるのだ。

台所を覗きに行くと、母は確かに泣いている。しかし、私が声をかけると、何事もなかったかのように普通の表情に戻る。そして、包丁の音も元通りになる。

三日目、四日目も同じだった。私は母に直接聞いてみることにした。

「お母さん、最近、料理してる時に泣いてない?」

母は驚いたような顔をした。

「泣く?なんで私が泣くの?」

「いや、台所から泣き声が聞こえるような気がして」

「智也、大丈夫?最近疲れてるんじゃない?」

母は心配そうに私の額に手を当てた。熱はない。

「もしかして、大学で何か嫌なことでもあった?」

私は首を振った。確かに最近忙しかったが、それ以外に特別なことはない。

その夜、私は台所の近くで待ち伏せすることにした。母が料理を始める前から廊下に隠れて、様子を見ることにしたのだ。

午後六時。母が台所に入っていく。そして、いつものように包丁の音が始まった。

トントントン、トントントン。

規則正しい音が続く。私は息を潜めて聞いていた。

そして、それは起こった。

包丁の音が変わった瞬間、台所の中で何かが動いた。母の影が二つに分かれたのだ。一つは普通に料理をしている母の影。そして、もう一つは―

もう一つの影は、母の後ろでうずくまっていた。肩を震わせて、すすり泣いているのだ。

私は目を疑った。しかし、確かに見えた。台所の蛍光灯の光が作り出す影が、二つあったのだ。

声を出そうとしたが、喉が詰まって出なかった。

そのとき、母が振り返った。いつものように優しい笑顔を浮かべている。しかし、その後ろの影は依然としてうずくまったまま泣き続けていた。

「智也?そんなところで何してるの?」

私は慌てて台所に入った。影を確認しようとしたが、母一人の影しか見えなかった。

「お母さん、今、影が―」

「影?」

母はきょとんとした顔をした。そして、自分の足元を見回した。

「普通の影よ?」

確かに、今は母一人の影しかなかった。

その夜、私は眠れなかった。あの二つの影は何だったのだろう。そして、なぜ母だけは気づかないのだろう。

翌朝、私は母に昔の話を聞いてみることにした。

「お母さん、この家に引っ越してくる前のこと、覚えてる?」

母は朝食の準備をしながら答えた。

「覚えてるわよ。智也が小学校に上がる前だから、もう十五年も前の話ね」

「前の家で、何か変わったことはなかった?」

母の手が止まった。フライパンを持ったまま、何かを思い出すような顔をした。

「変わったこと?」

「なんでもいいよ。気になることとか」

母は長い間黙っていた。そして、小さな声で言った。

「あの家でね、隣に住んでた奥さんがいたの」

「隣の奥さん?」

「田中さんって言ったかしら。一人暮らしの方でね。とても親切にしてくれた人だった」

母は再び料理を始めた。しかし、その手の動きはどこかぎこちなかった。

「その人がね、ある日突然いなくなったの」

「いなくなった?」

「救急車が来て、それっきり。後で聞いたら、台所で倒れていたそうよ」

私は背筋が寒くなった。

「台所で?」

「包丁を持ったまま倒れてたって聞いたわ。夕食の準備をしてる最中だったみたい」

母の声が震えているのに気づいた。

「それで、その人はどうなったの?」

「亡くなったの。一人だったから、発見が遅れて」

母は振り返った。その目には涙が浮かんでいた。

「私、その日の夕方、田中さんの家から包丁の音が聞こえてたの。でも、忙しくて声をかけなかった。もしあの時、様子を見に行ってれば」

私は全てを理解した。

台所で聞こえていたすすり泣きは、田中さんのものだった。一人で夕食を作りながら、誰にも看取られずに亡くなった田中さんが、母の罪悪感に引き寄せられて現れていたのだ。

「お母さん」

私は母を抱きしめた。

「お母さんのせいじゃないよ」

母は私の胸で泣いた。十五年間抱え続けてきた罪悪感を、ようやく吐き出すように。

それから数日後、私たちは田中さんのお墓参りに行った。母は花を供え、長い間手を合わせていた。

「ごめんなさい。気づいてあげられなくて」

その日を境に、台所からすすり泣きは聞こえなくなった。包丁の音も、いつものトントントンという規則正しいリズムに戻った。

しかし、時々、夕食の準備をしている母の後ろで、もう一つの影がそっと寄り添っているのを見ることがある。今度は泣いてはいない。静かに、母の料理を見守っているのだ。

それは、きっと田中さんなりの「ありがとう」なのだと、私は思っている。