深夜二時を回った頃だった。田中雅人は仕事から帰ってきて、缶ビールを片手にテレビを眺めていた。三十五歳の独身男性、両親を相次いで亡くしてから一人暮らしが長い。父は五年前に心筋梗塞で、母は昨年の春に癌で他界した。
母の死後、雅人は実家を売り払い、都内のワンルームマンションに引っ越した。母との思い出が詰まった家にいると、胸が苦しくなるからだった。新しい住まいは三階建てアパートの二階で、隣人とはほとんど顔を合わせることもない。それが雅人には都合が良かった。
その夜も、いつものように一人でビールを飲みながら深夜番組を見ていた。明日は土曜日だから、多少夜更かししても構わない。そんなことを考えながら、二本目の缶に手を伸ばそうとした時だった。
「雅人、お母さんだよ。開けて」
玄関の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。雅人の手が止まる。今の声は確かに母の声だった。優しく、少し鼻にかかったような、あの懐かしい母の声。
「雅人、いるでしょ。開けてちょうだい」
再び声が響く。雅人は立ち上がり、玄関に向かった。足音を立てないよう、そっと歩く。ドアの前に立ち、覗き穴から外を見ようとしたが、暗くて何も見えない。
「お母さん?」
雅人は震え声で呼びかけた。
「そうよ、雅人。お母さんよ。寒いの、開けて」
間違いない。母の声だ。しかし、母は死んだはずだ。雅人は母の最期を看取った。火葬場で骨を拾い、墓に納めた。それなのに、なぜ今、母の声がするのか。
「どうして…母さんは死んだじゃないか」
「何を言っているの。お母さんは生きているわよ。雅人、早く開けて。寒くて仕方がないの」
雅人の頭が混乱する。もしかしたら夢なのではないか。そう思って頬を叩いてみたが、痛みははっきりと感じられた。これは現実だ。
「雅人、お願い。開けてちょうだい。あなたに会いたくて、ずっと探していたのよ」
母の声は次第に切なくなっていく。雅人は鍵に手をかけた。しかし、何かが引っかかった。母が生きているはずがない。では、ドアの向こうにいるのは一体誰なのか。
「雅人、どうしたの?お母さんの声が分からないの?」
声は確かに母のものだった。イントネーション、話し方、すべてが母そのものだ。雅人は幼い頃から聞き慣れた、あの優しい声。夜中に熱を出した時、看病してくれた時の声。学校から帰ってきた時に「お帰りなさい」と迎えてくれた声。
雅人の目に涙が浮かんだ。もし本当に母が生きているなら。もし何かの間違いで、母の死が夢だったなら。そんな淡い期待が心の奥底から湧き上がってくる。
「母さん、本当に母さんなの?」
「当たり前でしょう。雅人を産んで育てた、あなたのお母さんよ。開けて、雅人。お母さんはあなたに会いたくて仕方がないの」
雅人は鍵に手をかけた。しかし、その瞬間、ふと違和感を覚えた。母の声のトーンが微妙に違う。そして、母が生前言っていた言葉を思い出す。
「雅人、もしお母さんが死んだ後に、お母さんの声で呼びかけるものがあっても、絶対にドアを開けてはいけないよ」
母は病床で、意識が朦朧とする中でそう言っていた。雅人は当時、母の病気が進行して、変なことを言い始めたのだと思っていた。しかし今、その言葉の意味が分かった。
「雅人、どうしたの?早く開けて」
声は段々と焦れったそうになってくる。そして、微かに別の何かが混じっているような気がした。母の声の奥に、別の生き物の息遣いのようなものが。
雅人は鍵から手を離した。
「母さんなら、私が子供の頃によく歌ってくれた子守歌を歌って」
沈黙が続いた。長い、長い沈黙。
「雅人、何を言っているの。寒いのよ、早く開けて」
声は同じだったが、雅人の要求には答えなかった。本物の母なら、すぐに歌ってくれるはずだ。雅人が熱を出した夜、母はいつもあの子守歌を歌ってくれた。
「母さんが作ってくれた、私の好きな料理は何?」
また沈黙。
「雅人、変なことを言わないで。開けて」
声は段々と苛立ちを含んできた。そして、確実に母の声とは違う何かが混じり始めている。
「母さんの旧姓は?」
「雅人!」
今度は怒鳴り声だった。しかし、それは明らかに母の声ではなかった。低く、うなるような、人間のものとは思えない声。
雅人は後ずさりした。ドアの向こうから、何かを引っ掻くような音が聞こえてくる。爪でドアを掻いているような音。そして、重いものがドアにもたれかかるような音。
「開けろ、開けろ、開けろ」
声は完全に変わっていた。母の声の名残はもうない。獣のような、この世のものとは思えない声。
雅人は部屋の奥に逃げ込んだ。しかし、その音は続いている。ドアを引っ掻く音、叩く音、そして時折聞こえる不気味な呻き声。
朝まで、その音は続いた。雅人は一睡もできずに震えながら朝を待った。日が昇ると共に、音は次第に小さくなり、やがて完全に消えた。
恐る恐るドアの前に行くと、覗き穴から外を見た。誰もいない。いつもの静かな廊下があるだけだった。
しかし、ドアには無数の引っ掻き傷が残されていた。深く、鋭い爪で付けられたような傷。人間の爪では絶対につけられないような傷跡が、ドア一面に刻まれていた。
その日の午後、雅人は管理人に事情を説明した。管理人は首を傾げながら言った。
「昨夜ですか?特に変わったことはありませんでしたが…。ただ、二時頃に野良猫が数匹、この建物の周りで鳴いていました。発情期なのか、すごい声で鳴いていましたよ。まるで人間の声のように聞こえるほどでした」
雅人は青ざめた。猫の鳴き声が人間の声に聞こえることがある。それは知っている。しかし、あれは確かに母の声だった。最初は。
その夜から、雅人は二度とあのアパートで一人の夜を過ごすことはなかった。実家の近所の親戚の家に身を寄せ、後日、アパートを解約した。
ドアの傷跡について、管理人は「前の住人がペットを飼っていた時の傷でしょう」と言った。しかし雅人は知っている。あれは昨夜付けられた傷だということを。
そして、雅人は母の最後の言葉の意味を理解した。この世には、死者の声を真似て生者を誘う何かがいる。それは家族への愛情と寂しさに付け込み、人を破滅に導く。
母は最期の力を振り絞って、息子を守るための警告を残してくれたのだ。
今でも雅人は夜中に、時々母の声を聞くことがある。しかし決してドアを開けることはない。本物の母なら、息子の安全を何より大切にするはずだから。本物の母なら、決して夜中にドアを開けさせようとはしないはずだから。
雅人は母の最後の愛に守られて、今日も生きている。