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誰もいないはずの2階

天井

夜の九時を回った頃、美月は居間のソファにもたれかかりながら、お気に入りのバラエティ番組を見ていた。両親は温泉旅行で明日の夜まで帰らない。高校二年生の美月にとって、こうした一人の時間は貴重だった。普段なら母親に「もう寝なさい」と言われる時間まで、好きなだけテレビを見ていられる。

「あー、自由って最高」

美月は伸びをしながら呟いた。画面では芸人たちが騒がしくコントを繰り広げている。笑い声が部屋に響く中、美月は膝に置いた毛布を引き上げた。十月の夜は思っていたより冷える。

そのとき、突然テレビの画面が真っ黒になった。

「えっ?」

美月はリモコンを手に取り、慌てて電源ボタンを押した。しかし、テレビは反応しない。電源ランプも消えている。停電かと思い、部屋を見回すと、時計もエアコンも正常に動いている。

「なんで?」

美月は立ち上がり、テレビの裏側を確認した。コンセントはしっかりと差し込まれている。プラグを一度抜いて、再び差し直してみる。それでもテレビは映らない。

「最悪…」

一人でいるときにテレビが壊れるなんて、と美月は溜息をついた。仕方なく、スマートフォンで動画でも見ようと思い、ソファに戻ろうとした。

その瞬間だった。

ギシ、ギシ。

かすかな音が聞こえた。美月は足を止める。今の音は何だろう?

静寂の中で、美月は耳を澄ませた。テレビが消えたことで、家の中がこんなにも静かだったのかと初めて気づく。時計の秒針の音、冷蔵庫のモーター音、外を走る車の音。普段は気にならない音が、やけにはっきりと聞こえる。

ギシ、ギシ、ギシ。

また音がした。今度ははっきりと聞こえた。それは間違いなく、誰かが階段を上っている音だった。

美月の心臓が跳ね上がった。家には自分一人しかいないはずだ。両親は温泉旅行中で、明日の夜まで帰らない。玄関の鍵もかけてある。

「気のせい…よね?」

美月は自分に言い聞かせるように呟いた。古い家だから、木材が収縮して音を立てることもある。そう、きっとそれだ。

しかし、音は規則正しく続いている。明らかに誰かの足音だった。

ギシ、ギシ、ギシ、ギシ。

音は二階に向かって上がっていく。美月は立ちすくんだまま、天井を見上げた。足音は二階の廊下を歩いているように聞こえる。

「まさか…泥棒?」

美月の顔から血の気が引いた。でも、どうやって家に入ったのだろう?玄関の鍵は確実にかけた。窓も全て閉めてある。それに、泥棒なら音を立てないように行動するはずだ。

足音は美月の部屋の上、つまり両親の寝室のあたりで止まった。しばらく静寂が続く。美月は呼吸を整えようとしたが、心臓の鼓動が激しすぎて、うまくいかない。

携帯電話を取り出し、警察に電話をかけようとした。しかし、手が震えて番号がうまく押せない。

そのとき、今度は別の音が聞こえた。

カチャ、カチャ。

ドアノブを回す音だ。誰かが二階の部屋のドアを開けようとしている。

美月は息を殺して聞き耳を立てた。音は両親の寝室から聞こえている。やがて、ギィという軋み音と共に、ドアが開かれたようだった。

足音が再び始まった。今度は部屋の中を歩き回っているようだ。引き出しを開ける音、何かを探しているような物音が続く。

やはり泥棒だ。美月はそう確信した。しかし、なぜ音を立てるのだろう?まるで、家に誰もいないと思っているかのように。

美月は恐る恐る居間から出て、階段の下に向かった。階段は居間から見えないところにある。廊下を進み、角を曲がると、二階に続く階段が見えた。

階段の上は暗い。二階の電気は全て消してある。しかし、両親の寝室からかすかに光が漏れているのが見えた。懐中電灯か何かを使っているのだろうか。

美月は階段の下で立ち止まった。上に行って確かめるべきだろうか?それとも、このまま警察を呼ぶべきだろうか?

迷っていると、足音が止んだ。そして、今度は別の音が聞こえ始めた。

ギシ、ギシ、ギシ。

階段を下りてくる音だった。

美月は慌てて居間に駆け戻った。ソファの後ろに隠れ、階段の方を見つめる。足音はゆっくりと、一歩ずつ階段を下りてくる。

「見つからないで、見つからないで…」

美月は心の中で祈った。しかし、足音は一階に到達し、廊下を歩いてくる。美月の方向に向かっているようだった。

足音が止まった。居間の入り口のあたりだ。美月は息を止めた。誰かが入り口から中を覗いているのが分かる。

しばらくして、足音が遠ざかっていった。玄関の方向だ。やがて、玄関のドアが開く音がした。そして、静寂が戻った。

美月は震えながら、ソファの後ろから立ち上がった。泥棒は去ったようだ。しかし、恐怖で足がすくんでいる。

携帯電話を取り出し、今度は確実に警察に電話をかけた。

「もしもし、警察ですか?泥棒が入りました…」

警察官が到着したのは三十分後だった。二人の警察官が家中を調べてくれたが、何も異常は見つからなかった。窓も扉も、侵入された形跡はない。二階の両親の寝室も、何も盗まれていなかった。

「何も被害がないようですが…」

警察官の一人が美月に言った。

「でも、確かに足音が聞こえたんです。二階で物音もしました」

「古い家だから、木材の収縮で音がすることもありますよ。一人でいると、普段気にならない音も大きく聞こえるものです」

警察官は優しく説明してくれたが、美月は納得できなかった。あれは確実に人の足音だった。

警察官が帰った後、美月は二階に上がった。両親の寝室を調べてみる。タンスの引き出し、クローゼット、ベッドの下。しかし、何も変わった様子はない。

美月は首をかしげた。本当に気のせいだったのだろうか?

その時、ふと鏡台の前を通りかかった美月は、足を止めた。鏡台の上に置かれた母親の写真立てが、普段と向きが違っている。写真は普通、部屋の中央を向いているはずなのに、今は窓の方を向いている。

美月は写真立てを正しい向きに直した。きっと地震か何かで動いたのだろう。

翌日の夜、両親が旅行から帰ってきた。美月は昨夜の出来事を話そうかと迷ったが、結局何も言わなかった。警察官にも信じてもらえなかったのだから、両親が信じるとは思えない。

それから一週間が過ぎた。美月は昨夜の出来事を忘れようとしていた。しかし、ある晩、母親が奇妙なことを言った。

「美月、旅行から帰った日に、私の部屋で何かした?」

「えっ?何もしてないよ」

「写真立ての向きが変わってたのよ。それに、引き出しの中の物の位置も微妙に違ってて…」

美月は凍りついた。写真立てのことは確かに直した。しかし、引き出しの中は触っていない。

「まあ、地震かなにかかしら」

母親は軽く笑って済ませたが、美月の心に再び恐怖が蘇った。

その夜、美月は自分の部屋で宿題をしていた。午後十一時を回った頃、またあの音が聞こえた。

ギシ、ギシ、ギシ。

階段を上る足音だった。しかし今回は、両親がいる。美月は部屋から出て、両親の寝室を見た。電気は消えていて、中からは父親のいびきが聞こえる。

それなのに、足音は続いている。

美月は廊下に出た。足音は確実に二階を歩いている。美月の部屋の前を通り過ぎ、突き当りの物置部屋に向かっているようだった。

物置部屋?あそこは滅多に人が入らない場所だ。

美月は恐る恐る物置部屋に向かった。部屋の前で立ち止まり、扉の隙間から中を覗いてみる。

扉の隙間から、薄っすらと光が見えた。そして、影が動いているのが分かった。確実に誰かがいる。

美月は息を殺して見つめた。影は段ボール箱を動かしているようだった。何かを探している。

その時、影が美月の方を向いた。美月は慌てて身を隠したが、相手に見つかってしまったかもしれない。

心臓が激しく鼓動する中、美月は自分の部屋に駆け戻った。扉に鍵をかけ、ベッドの上で震えていた。

翌朝、美月は物置部屋を調べてみた。しかし、何も変わった様子はない。段ボール箱も、昨夜と同じ位置にある。

「夢だったのかな…」

美月は自分に言い聞かせようとした。しかし、あの影は確実に見た。夢にしては、あまりにもリアルだった。

その日の夕方、美月は学校から帰る途中で、近所のお婆さんに話しかけられた。

「美月ちゃん、最近お宅で変わったことない?」

「変わったこと?」

「実は、夜中に電気が点いてるのを見かけるのよ。二階の部屋で、誰かが歩き回ってるみたいで…」

美月は血の気が引いた。他の人も気づいていたのだ。

「でも、旅行以外は家族みんないるはずですが…」

「そうなのよね。でも確かに見たのよ。しかも、一人じゃなくて複数の影が見えたような…」

美月は家に帰ると、すぐに母親に話した。しかし、母親は首をかしげるばかりだった。

「複数の影?そんなはずないでしょう」

その夜、美月は確かめることにした。夜中の二時、家族が寝静まった頃、美月はそっと部屋から出た。

物置部屋の前に行き、扉の隙間から中を覗く。やはり、薄っすらと光が見えた。そして、複数の影が動いているのが分かった。

美月は息を殺して見つめた。影は三つ。明らかに人の形をしている。三人が段ボール箱を調べているようだった。

その時、一つの影が美月の方を向いた。美月は慌てて身を隠そうとしたが、間に合わなかった。

扉がゆっくりと開いた。

中から出てきたのは、美月の家族だった。父親、母親、そして美月自身。三人とも、いつもの服装をしている。しかし、何かが違う。表情が無機質で、目に光がない。

「あ…」

美月は声を失った。三人の人影は美月を見つめている。そして、ゆっくりと近づいてきた。

美月は動けなかった。恐怖で体が硬直している。

偽物の父親が口を開いた。

「君は誰だ?」

声は確かに父親の声だった。しかし、冷たく、感情がこもっていない。

「なぜこの家にいる?」

偽物の母親も同じような冷たい声で言った。

そして、偽物の美月が口を開いた。

「私はここにいる。君はどこにいるべきなのか?」

美月は理解した。彼らは別の世界の住人なのだ。そして、何らかの理由で、この世界に現れている。彼らにとって、本物の美月こそが侵入者なのだ。

「帰って…」

美月は震え声で言った。

「ここは私たちの家よ」

「違う、私たちの家だ」

偽物の家族は口々に言った。

美月は階段に向かって走った。しかし、階段の下には、もう一人の偽物の美月が立っていた。

「逃げる必要はない。君もここにいればいい」

偽物の美月は笑いながら言った。しかし、その笑顔は恐ろしく冷たかった。

「君がここにいれば、私たちも安心だ」

偽物の父親が背後から言った。

美月は囲まれてしまった。もう逃げ場はない。

「お願い…私を家族にして…」

美月は涙を流しながら言った。

偽物の家族は顔を見合わせた。そして、同時に頷いた。

「いいだろう」

偽物の母親が言った。

「君も私たちの一部になるのだ」

翌朝、本物の両親が目を覚ますと、美月の部屋は空っぽだった。ベッドは使われた形跡がなく、まるで最初から誰もいなかったかのようだった。

両親は慌てて美月を探したが、どこにも見つからない。警察に届け出ても、有力な手がかりは見つからなかった。

それから数日後、近所のお婆さんが奇妙なことを言った。

「最近、お宅の二階で見かける影が一つ増えたような気がするのよ」

両親には、その意味が分からなかった。

しかし、今でも夜中になると、二階から足音が聞こえる。そして、四つの影が物置部屋で何かを探し続けている。

彼らは新しい家族を探しているのかもしれない。