麻衣子がそのことに気づいたのは、金曜日の夜だった。
残業で疲れ切って帰宅し、ベッドに倒れ込むようにして横になりながら、何気なくスマートフォンを開いた。友人から送られてきたメッセージに返事をしようと写真フォルダを開いたとき、見慣れない写真が数枚混じっているのに気づいた。
「あれ?」
最初は自分が撮り忘れた写真だと思った。しかし、よく見ると違和感があった。写真に写っているのは確かに自分だったが、撮った記憶がまったくない。しかも、角度が妙だった。
一枚目は、彼女がソファでうたた寝をしている写真だった。口を少し開けて、無防備に眠っている自分の顔が写っている。撮影角度は真上からで、まるで誰かが彼女を見下ろしながら撮ったようだった。
「自撮りじゃない…」
麻衣子の背筋に冷たいものが走った。自撮りなら、もっと下から撮ることになるはずだ。それに、彼女は眠っているとき以外、ソファで横になることはほとんどない。
次の写真を見て、麻衣子は息を呑んだ。キッチンで料理をしている自分の後ろ姿だった。しかし、この写真も明らかにおかしかった。撮影位置はリビングのテーブル付近からで、誰かが彼女の様子を観察するように撮影していた。
「いつの写真だろう…」
詳細を確認すると、どの写真も過去一週間以内に撮影されていた。しかし、麻衣子には心当たりがない。友人を呼んだこともないし、恋人もいない。管理人が勝手に入ることもありえない。
震える手で次の写真を開くと、今度はシャワーを浴びている自分の後ろ姿が写っていた。浴室のドア越しに撮られたような、ぼやけた写真だったが、間違いなく自分だった。
「誰が…誰が撮ったの?」
麻衣子は慌ててアパートの玄関ドアを確認しに行った。鍵はしっかりと閉まっている。チェーンロックも掛かっていた。窓も全て施錠されており、外から侵入できるような場所はない。
それでも気になって、部屋中を調べ回った。隠しカメラのようなものがないか、くまなく探したが、何も見つからない。
翌日の土曜日、麻衣子は友人の由美子に相談した。
「それって、スマホが勝手に写真撮っちゃったとかじゃない?最近のスマホって、誤動作で写真撮ることがあるって聞いたことがあるよ」
由美子の言葉に少し安心したが、それでも納得できなかった。誤動作にしては、撮影角度があまりにも不自然だった。
「でも、念のため警察に相談してみたら?ストーカーとか、空き巣の下見とかかもしれないし」
その夜、麻衣子は警察に電話をかけようとしたが、結局やめた。証拠が写真だけでは、相手にしてもらえないかもしれない。それに、もし本当にスマホの誤動作だったら、大げさすぎる。
しかし、日曜日の朝、新たな写真が追加されているのを発見したとき、麻衣子の不安は確信に変わった。
今度は、彼女がベッドで熟睡している写真だった。撮影時刻は午前2時35分。彼女が最も深く眠っている時間帯だ。そして、この写真の角度は、ベッドの足元から撮影されていた。
「誰かが部屋にいる…」
麻衣子の体が震え始めた。誰かが夜中に彼女の部屋に入り込み、眠っている姿を撮影している。しかも、何日も続けて。
その日から、麻衣子は眠れなくなった。夜中に物音がするたびに飛び起き、部屋中を調べ回った。しかし、誰もいない。それでも、翌朝には必ず新しい写真が追加されていた。
火曜日の夜、ついに麻衣子は決心した。今夜こそ、犯人を捕まえてやる。
彼女は寝たふりをしていた。布団をかぶり、規則正しい寝息を立てながら、薄目を開けて部屋の様子を伺っていた。時計の針が午前2時を回ったとき、かすかに床がきしむ音がした。
麻衣子の心臓が激しく鼓動した。誰かがいる。確実に誰かが部屋にいる。
しかし、どれだけ目を凝らしても、誰の姿も見えない。それでも、確実に誰かの気配を感じる。そして、かすかなシャッター音が聞こえた。
「そこにいるのは誰!」
麻衣子は跳び起きて電気をつけた。しかし、部屋には誰もいなかった。すぐに玄関を確認したが、鍵は閉まったままだった。
翌朝、予想通り新しい写真が追加されていた。昨夜、彼女が寝たふりをしている写真だった。撮影時刻は午前2時17分。まさに彼女が気配を感じた時間だった。
その日、麻衝子は会社を早退して、スマホショップに向かった。
「写真が勝手に撮影されるなんてことはありますか?」
店員は首を振った。
「そういった不具合は聞いたことがありませんね。ただ、遠隔操作で写真を撮影できるアプリは存在しますが…」
「遠隔操作?」
「はい。例えば、誰かがお客様のスマホに監視アプリをインストールしていれば、遠隔地から写真を撮影することは可能です」
麻衣子の血の気が引いた。
「でも、それには物理的にスマホを触る必要がありますし、パスワードも必要ですから…」
帰宅後、麻衣子は恐る恐るスマホのアプリ一覧を確認した。見慣れないアプリがいくつかあったが、システム関連のものなのか判断がつかない。
その夜、麻衣子は実家に避難することにした。しかし、翌朝、実家で目を覚ましたとき、またもや新しい写真が追加されていた。今度は実家の布団で眠る自分の写真だった。
「お母さん、夜中に私の部屋に入った?」
「入ってないわよ。あんた、大丈夫?」
麻衣子は絶望的な気持ちになった。実家でも写真が撮られているということは、犯人は彼女をつけ回しているのか。それとも…
その日、麻衣子は思い切って警察に相談した。しかし、予想通り、物的証拠が乏しいため、積極的な捜査は難しいと言われた。
「ただ、念のため、スマートフォンを専門業者に調べてもらうことをお勧めします」
翌日、麻衣子はスマホを専門業者に持ち込んだ。そして、数時間後に衝撃的な事実が判明した。
「お客様のスマホには、確かに監視アプリがインストールされています。しかも、かなり高度なもので、カメラを遠隔操作して撮影し、自動的に写真フォルダに保存するよう設定されています」
「誰がそんなことを…」
「アプリのインストール履歴を調べたところ、約一ヶ月前にインストールされています。この時期に、誰かがお客様のスマホを触る機会はありましたか?」
麻衣子は必死に記憶を辿った。一ヶ月前…その頃、スマホの調子が悪くて、会社の同僚の田中さんに相談した。田中さんはIT関係に詳しく、彼女のスマホを預かって、いくつかのアプリをインストールしてくれた。
「これで動作が軽くなりますよ」
そう言って、田中さんは笑顔でスマホを返してくれた。
「犯人は…」
麻衣子の脳裏に、田中さんの顔が浮かんだ。いつも親切で、頼りになる先輩だと思っていた。しかし、最近、彼の視線を感じることが多かった。エレベーターで二人きりになったとき、彼が彼女を見つめている視線に気づいていた。
業者の助けを借りて監視アプリを削除し、麻衣子は警察に証拠を提出した。その後の捜査で、田中さんが犯人であることが判明した。
「君のことが好きだったんだ。でも、声をかける勇気がなくて…せめて君の日常を見ていたかった」
田中さんは泣きながら謝罪したが、麻衣子の心の傷は深かった。
今でも麻衣子は、夜中に誰かに見られているような気がして、なかなか眠れない。スマホのカメラには必ずテープを貼り、写真フォルダを開くたびに、見知らぬ写真が増えていないか確認してしまう。
日常に潜む恐怖は、最も信頼していた人の心の中にあった。