その朝、空は鉛色に重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな気配だった。田中健一は慌てて家を出たため、傘を持ってくるのを忘れていた。
駅のホームに降りると、案の定、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。健一は舌打ちをして、いつものベンチに腰を下ろそうとした時、そこに一本の傘が置かれているのに気づいた。
古びた赤い傘だった。柄は黒く、所々に錆が浮いている。布地も色褪せて、いかにも年季が入っている様子だった。忘れ物だろうか。健一は辺りを見回したが、持ち主らしき人影はない。
雨は次第に本降りになってきた。健一は少し迷ったが、どうせ忘れ物なら駅員に届けるより、雨宿りに使った後で届ける方が合理的だと自分に言い聞かせ、その傘を手に取った。
傘を開くと、意外にもしっかりとしていて、雨をよく弾いた。健一は安堵して電車に乗り込んだ。車内で傘を畳みながら、ふと違和感を覚えた。傘の内側に、薄っすらと文字のようなものが見えるのだ。よく見ると、「ゆかり」と小さくひらがなで書かれていた。
会社に着くと、健一は傘を傘立てに置いた。その日は朝から妙に集中できず、なんとなく落ち着かない一日だった。夕方、雨は上がっていたが、健一は赤い傘を持って帰った。明日駅で忘れ物として届けようと思ったのだ。
翌朝、健一が駅に着くと、騒然とした雰囲気に包まれていた。駅員や警察官が慌ただしく動き回っている。
「昨夜、ホームで人身事故があったんです」
同僚の山田が説明してくれた。
「転落事故らしいんですが、監視カメラを見ても、なぜ落ちたのかよく分からないんだそうです」
健一は背筋が寒くなった。事故が起きたのは、まさに自分が傘を拾ったベンチの前だった。
その日の午後、今度は会社で異変が起きた。健一の隣の席に座る新人の佐藤が、階段で足を滑らせて怪我をしたのだ。幸い軽傷だったが、佐藤は青ざめながら言った。
「階段を下りていたら、急に誰かに押されたような感じがしたんです。でも振り返っても誰もいなくて……」
健一は胸騒ぎを覚えながら帰宅した。家に着くと、赤い傘を玄関の隅に立てかけておいた。しかし夜中、寝苦しくて目を覚ますと、玄関の方から微かな音が聞こえてきた。
ぽた、ぽた、と水滴が落ちる音だった。
健一は恐る恐る玄関に向かった。赤い傘の先端から、確かに水滴が垂れている。しかし今日は一日中晴れていたはずだ。傘が濡れている理由がない。
翌日も、その次の日も、健一の周囲では小さな事故が続いた。エレベーターが突然止まったり、信号機が故障したり、誰かが階段で転んだり。そしてその度に、健一は妙な視線を感じるようになった。
一週間が過ぎた頃、健一は我慢できなくなり、駅の忘れ物センターに問い合わせることにした。
「赤い傘の忘れ物の件で……」
「ああ、そちらでお預かりいただいているものですね」
係員の反応は意外だった。
「実は、その傘についてお話があります。差し支えなければ、一度こちらにお越しいただけませんか」
翌日、健一は駅の事務所を訪れた。応対してくれたのは、中年の男性駅員だった。
「実は、その傘は非常に古いものでして」
駅員は重い口調で話し始めた。
「10年前、この駅で小学生の女の子が事故で亡くなったんです。雨の日の夕方、ホームで転落して……。その子が持っていたのが、その赤い傘だったんです」
健一の血の気が引いた。
「女の子の名前は『ゆかり』ちゃんでした。事故の後、傘は遺族に返されたはずなんですが、なぜかこの10年間、時々同じ場所に現れるんです。そして傘を持って行った人の周りで、必ず事故が起きる」
駅員は監視カメラの映像を見せてくれた。10年間の記録を早送りで再生すると、確かに時折、同じベンチに赤い傘が現れては消える様子が映っていた。
「警察も調べましたが、誰が置いているのか分からないんです。まるで傘が自分で現れるような……」
その夜、健一は傘を持って、10年前の事故現場となったホームに向かった。終電が過ぎて人気のなくなった駅で、健一は傘を元のベンチに置いた。
「ゆかりちゃん、ごめん。君の傘だったんだね」
健一が振り返ろうとした時、背後から小さな声が聞こえた。
「おじちゃん、ありがとう……」
振り返ると、小さな女の子の影がぼんやりと見えた。雨に濡れた制服を着て、寂しそうに微笑んでいる。
「ずっと、傘を探してたの。お母さんに買ってもらった、大切な傘だから……」
少女の姿は次第に薄くなり、やがて完全に消えた。同時に、ベンチに置いた赤い傘も跡形もなく消え去った。
その後、駅での不可解な事故は完全に止んだ。健一も、あの妙な視線を感じることはなくなった。ただ時々、雨の日に同じホームを通りかかると、どこからともなく子供の笑い声が聞こえてくるような気がするのだった。
10年間、少女は自分の大切な傘を探し続けていたのだ。そして傘を持って行く人々に、自分の存在を知らせようとしていたのかもしれない。ただ傘を返してもらいたい一心で、彼女なりの方法で。
健一は今でも雨の日には必ず傘を持参する。そして駅のベンチで忘れ物を見つけても、決して手を出さないことにしている。それがどんなに大切な誰かの物かもしれないから。そして、その物にまつわる想いの深さを、彼は身をもって知ったからだった。