九月の第一週、夏休み明けの図書室は静寂に包まれていた。司書の田中先生は、返却ボックスに入っている本を一冊ずつ取り出し、バーコードを読み取りながら返却処理を進めていた。
「あら?」
手に取った一冊の文庫本を見て、田中先生は首をかしげた。表紙は日焼けで色あせ、角が丸くなっている。明らかに古い本だった。バーコードを読み取ると、コンピューターの画面に貸し出し記録が表示された。
貸し出し日:2019年7月15日 返却予定日:2019年8月5日 借主:佐藤美咲(2年C組)
田中先生の手が震えた。佐藤美咲という名前に見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。彼女は三年前の夏休み中に行方不明になった生徒だった。
「でも、なぜ今になって…」
田中先生は画面をよく見直した。返却日の欄を確認すると、そこには昨日の日付が記録されていた。2022年9月4日、午後3時47分。
「そんなはずは…」
慌てて返却ボックスを確認したが、もう空っぽだった。他の本はすべて処理済みで、この一冊だけが残されていた。
佐藤美咲は、三年前の夏休み中に突然姿を消した。最後に目撃されたのは図書室だった。夏休み中の補習授業の合間に、一人で本を読んでいる姿を用務員が見たのが最後だった。警察の捜索も行われたが、手がかりは見つからなかった。
田中先生は震える手で本を開いた。それは江戸川乱歩の短編集だった。ページをめくると、ところどころに鉛筆で書かれた線が引かれていた。
「真実は必ず明かされる」 「隠された秘密は時を超える」 「死者の声は届く」
線が引かれた部分を読むと、田中先生の背筋に冷たいものが走った。まるで何かのメッセージのようだった。
その時、図書室の奥から足音が聞こえた。カツ、カツ、カツ。規則正しい足音が近づいてくる。
「誰か来たのかしら?」
田中先生は振り返ったが、誰もいなかった。足音は止んでいた。
本を手に取り、もう一度ページをめくった。最後のページに、鉛筆で書かれた文字を見つけた。
「先生、私の本を返しに来ました。でも、まだ読み終わっていません。もう少し借りていてもいいですか?」
田中先生は本を落としそうになった。その筆跡は、間違いなく佐藤美咲のものだった。
「美咲ちゃん?」
田中先生は声を絞り出した。しかし、返事はなかった。
その夜、田中先生は家でも佐藤美咲のことを考えていた。あの子は本当に読書が好きだった。特に推理小説を好み、図書室では一番熱心な利用者の一人だった。
翌日、田中先生は昨日の出来事を教頭先生に相談した。
「それは不思議な話ですね。でも、システムの不具合かもしれません。コンピューターが勝手に返却処理をしてしまったのでは?」
教頭先生は合理的な説明を試みたが、田中先生は納得できなかった。
「でも、本は確実に返却ボックスに入っていました。誰かが入れたはずです」
「もしかしたら、どこかで保管されていた本を、誰かが善意で返してくれたのかもしれませんね」
その日の放課後、田中先生は一人で図書室に残っていた。佐藤美咲が借りていた本を机の上に置き、じっと見つめていた。
午後6時を過ぎた頃、また足音が聞こえた。今度ははっきりと聞こえた。カツ、カツ、カツ。
「誰?」
田中先生は声をかけたが、返事はなかった。足音は書架の向こうから聞こえてくる。
恐る恐る書架の向こうに回ると、そこには誰もいなかった。しかし、床に何かが落ちていた。
それは図書カードだった。佐藤美咲の名前が書かれた図書カードだった。
田中先生は急いで机に戻った。さっき置いておいた本を確認すると、本の間から一枚の紙が落ちた。
「先生へ 私はまだここにいます。本を読み続けています。 真実を知りたくて、ずっと調べています。 でも、もう疲れました。 最後に一つだけ教えてください。 あの日、私を最後に見たのは誰ですか?」
田中先生の手が震えた。この文章も、間違いなく佐藤美咲の筆跡だった。
翌日、田中先生は三年前の記録を詳しく調べた。佐藤美咲が最後に目撃された日の図書室利用記録を確認した。
その日、図書室には佐藤美咲以外にもう一人いた。当時の用務員、山田さんだった。山田さんは佐藤美咲を見かけた後、図書室を施錠して帰ったと証言していた。
しかし、記録をよく見ると、おかしな点があった。山田さんは午後5時に図書室を施錠したと記録されているが、佐藤美咲の図書カードには午後5時30分に貸し出し記録が残っていた。
「どうして施錠後に本を借りることができたの?」
田中先生は山田さんに連絡を取った。山田さんは三年前に定年退職し、今は故郷で暮らしていた。
「山田さん、三年前の夏休みの件で、お聞きしたいことがあります」
電話の向こうで、山田さんは長い沈黙の後、重い口調で答えた。
「先生、実は…あの日のことは、ずっと心に引っかかっていました」
山田さんの証言によると、あの日、佐藤美咲は図書室で一人で本を読んでいた。山田さんが施錠の時間を告げると、美咲は「もう少しだけ」と頼んだ。
「可愛らしい子でしたから、つい30分ほど延長してあげました。でも、その後…」
「その後、どうなったんですか?」
「私が別の用事で校舎を回っていた時、図書室から悲鳴が聞こえました。急いで戻ると、美咲ちゃんは倒れていました。意識を失って…」
田中先生は息を呑んだ。
「それから、どうしたんですか?」
「救急車を呼ぼうとしましたが、美咲ちゃんは目を覚まして、大丈夫だと言いました。でも、顔色が真っ青で…私は心配で、家まで送ろうと申し出ました」
「美咲ちゃんは何と言いましたか?」
「本を返してから帰ると言いました。でも、その本は…」
山田さんの声が震えた。
「その本は、書架に戻されていませんでした。美咲ちゃんは本を持ったまま、図書室を出て行きました。それが最後でした」
田中先生は理解した。佐藤美咲は図書室で何かに遭遇し、本を持ったまま姿を消したのだ。そして今、その本が返却されている。
「山田さん、美咲ちゃんが最後に借りた本のタイトルを覚えていますか?」
「確か…江戸川乱歩の短編集でした」
田中先生は電話を切った後、机の上の本を見つめた。この本は、佐藤美咲が最後に手にした本だった。
その夜、田中先生は図書室に残った。午後6時を過ぎると、いつものように足音が聞こえた。
「美咲ちゃん?」
今度は、返事があった。
「先生…」
か細い声が聞こえた。振り返ると、書架の向こうに、制服を着た少女の影がぼんやりと見えた。
「美咲ちゃん、本当にあなたなの?」
「はい…先生、私、ずっとここにいました。本を読み続けています」
「どうして?何があったの?」
佐藤美咲の影は、ゆっくりと田中先生に近づいてきた。
「あの日、私は図書室で本を読んでいました。そして、書架の奥で、古い日記を見つけました」
「日記?」
「この学校の昔の生徒が書いた日記です。その中に、恐ろしい秘密が書かれていました」
田中先生は聞き入った。
「どんな秘密?」
「昔、この学校では、生徒が行方不明になる事件が何度も起きていました。でも、それは事故ではありませんでした。誰かが意図的に…」
佐藤美咲の声が途切れた。
「誰が?」
「私が日記を読んでいると、その人が図書室に来ました。日記を返すように言われました。でも、真実を知ってしまった私を、その人は…」
田中先生は息を呑んだ。
「その人は誰なの?」
佐藤美咲の影が、田中先生の方を振り返った。
「先生、その人は今でもこの学校にいます。私を見つけた時と同じように、今でも生徒たちを見守っています」
田中先生の背筋に冷たいものが走った。
「美咲ちゃん、その人の名前を教えて」
「山田さんです」
田中先生は震え上がった。山田さんは、佐藤美咲を最後に見た人物だった。
「山田さんは、学校の秘密を知っていました。そして、その秘密を知った生徒を消してきました。私も、その一人になってしまいました」
「でも、山田さんはもう学校を辞めているわ」
「先生、山田さんは本当に辞めたのでしょうか?」
田中先生は愕然とした。確かに、山田さんは定年退職したことになっている。でも、今でも時々、夜遅くに学校で人影を見かけることがあった。
「先生、私は本を返しに来ました。でも、それだけではありません。真実を伝えるために戻ってきました」
佐藤美咲の影が、本を田中先生に差し出した。
「この本の最後のページを読んでください」
田中先生は本を開いた。最後のページには、鉛筆で書かれた文字がびっしりと詰まっていた。
「1995年、田村健二(2年A組)行方不明 1998年、鈴木由美(1年B組)行方不明
2001年、高橋大輔(3年C組)行方不明 2007年、中村加奈(2年A組)行方不明 2015年、木村真一(3年B組)行方不明 2019年、佐藤美咲(2年C組)行方不明
すべて、図書室で最後に目撃されています。 すべて、山田さんが最後に見た生徒たちです。 先生、これは偶然ではありません。 山田さんは、学校の地下に秘密の部屋を作っていました。 そこに、私たちは閉じ込められています。 まだ、間に合います。 真実を明かしてください。」
田中先生の手が震えた。この文章が事実なら、山田さんは連続殺人犯だということになる。
「美咲ちゃん、あなたたちは今、どこにいるの?」
「図書室の地下です。山田さんが作った隠し部屋に、私たちは閉じ込められています。でも、私だけは、時々こうやって図書室に戻ってこられます」
「どうして?」
「本への思いが強いからかもしれません。私は死んでも、本を読み続けたいと思っています」
田中先生は立ち上がった。
「美咲ちゃん、その隠し部屋はどこにあるの?」
佐藤美咲の影が、図書室の奥を指差した。
「書架の向こうに、隠し扉があります。地下に続く階段があります」
田中先生は書架の奥に向かった。よく見ると、床に不自然な線が見えた。隠し扉の輪郭だった。
「美咲ちゃん、警察に連絡するわ」
「先生、気をつけてください。山田さんは、今でも学校に来ています。夜中に、地下の部屋をチェックしに来ます」
田中先生は急いで携帯電話を取り出した。しかし、その時、図書室の扉が開く音がした。
「こんばんは、田中先生」
振り返ると、山田さんが立っていた。作業服を着た、見慣れた姿だった。
「山田さん?どうしてここに?」
「久しぶりに学校を見に来ました。図書室に明かりがついていたので、心配になって」
山田さんは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。しかし、田中先生には、その笑顔が恐ろしく見えた。
「山田さん、佐藤美咲のことで、お聞きしたいことがあります」
「ああ、美咲ちゃんですね。可愛い子でした」
山田さんは、田中先生の手にある本を見つめた。
「その本は…」
「これは、美咲ちゃんが最後に借りた本です」
山田さんの表情が変わった。
「先生、その本は危険です。返却してください」
「どうして危険なの?」
「その本には…書いてはいけないことが書かれています」
田中先生は本を抱きしめた。
「美咲ちゃんが書いた真実のことですね」
山田さんの顔が歪んだ。
「先生、何も知らない方が良いのです」
「山田さん、あなたは美咲ちゃんを殺したのですね」
山田さんは、もう笑顔を作らなかった。
「先生、私は学校のために働いてきました。学校の秘密を守るために」
「どんな秘密?」
「この学校は、昔から呪われているのです。図書室に、悪霊が住み着いています。その悪霊が、生徒たちを誘惑するのです」
田中先生は首を振った。
「そんなことはありません。あなたが生徒たちを殺したのです」
山田さんは、ゆっくりと田中先生に近づいた。
「先生、あなたも美咲ちゃんと同じように、知りすぎました」
その時、図書室の電気が消えた。真っ暗闇の中で、田中先生は佐藤美咲の声を聞いた。
「先生、逃げて!」
田中先生は本を抱えて走った。図書室の扉に向かって駆け出した。
「待ちなさい、田中先生!」
山田さんの声が後ろから追いかけてくる。
田中先生は廊下に出て、職員室に向かった。そこから警察に連絡しなければならない。
職員室に着いた田中先生は、震える手で110番通報した。
「もしもし、警察ですか?殺人事件です。犯人は学校にいます」
30分後、警察が到着した。田中先生は警察官に事情を説明した。
「本当に地下に隠し部屋があるのですか?」
「はい、美咲ちゃんが教えてくれました」
警察官たちは、田中先生と一緒に図書室に向かった。しかし、山田さんの姿はなかった。
「隠し扉はどこですか?」
田中先生は書架の奥を指差した。警察官が床を調べると、確かに隠し扉があった。
扉を開けると、地下に続く階段があった。警察官たちは慎重に階段を降りた。
地下には、小さな部屋が作られていた。そこには、古い机と椅子、そして本棚があった。
本棚には、行方不明になった生徒たちの私物が並んでいた。制服、カバン、教科書。
「これは…」
警察官の一人が、奥の部屋を調べた。そこには、六つの白骨が並んでいた。
「見つかりました。六体の遺体です」
田中先生は、佐藤美咲の声を聞いた。
「先生、ありがとうございます。やっと、真実が明かされました」
しかし、山田さんは見つからなかった。その後の捜索でも、山田さんの行方は分からなかった。
一週間後、田中先生は図書室で働いていた。返却ボックスには、一冊の本が入っていた。
江戸川乱歩の短編集だった。
田中先生は本を開いた。最後のページに、新しい文字が書かれていた。
「先生、私たちは安らかに眠ることができます。 でも、山田さんはまだどこかにいます。 他の学校で、同じことをしているかもしれません。 どうか、気をつけてください。 そして、この本を大切にしてください。 真実を語る本として。
佐藤美咲より」
田中先生は本を図書室の特別な場所に保管した。二度と誰にも貸し出さない本として。
しかし、時々、夜遅くに図書室にいると、足音が聞こえることがある。
カツ、カツ、カツ。
それは、佐藤美咲たちの足音なのか、それとも…
田中先生は今でも、返却ボックスをチェックするときに恐怖を感じる。
もしもあの本が、再び返却されていたら…
それは、山田さんが戻ってきた証拠かもしれない。
図書室の秘密は明かされたが、真の恐怖は今も続いている。
田中先生は、今夜も一人で図書室に残り、静かに本を整理している。
足音が聞こえるまで。