MENU

100円均一の”ひとつだけ”商品

100均

雨に濡れた傘を振りながら、田中は最寄りの100円ショップに足を向けた。仕事帰りの金曜日、明日は休みだというのに気分は晴れなかった。同僚との些細な口論、上司からの理不尽な叱責、そして恋人からの別れ話。全てが重なって、彼の心は疲れ切っていた。

「いらっしゃいませ」

店員の機械的な声が響く中、田中は店内をぼんやりと歩いた。特に買うものがあるわけでもなく、ただ家に帰りたくない気持ちが彼の足を向けさせただけだった。

蛍光灯の白い光が商品棚を照らしている。文房具、キッチン用品、掃除用具。どれも見慣れた100円の商品ばかりだ。そんな中、雑貨コーナーの奥で、田中の視線がある商品で止まった。

小さな人形だった。

手のひらに収まるほどの大きさで、白い陶器のような素材でできている。顔は能面のように無表情で、黒い髪が肩まで垂れている。和風の着物を着た女性の人形で、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。

不思議なのは、その人形だけが商品棚にぽつんと一個だけ置かれていたことだった。他の商品は複数個並んでいるのに、この人形だけは”ひとつだけ”だった。

「こんなものも売ってるんだ」

田中は興味深そうに人形を手に取った。ずっしりとした重みがあり、作りもしっかりしている。100円にしては上質な商品だと感じた。何となく愛着が湧いて、彼はその人形を購入することにした。

レジで「108円になります」と告げられ、田中は小銭を渡した。店員は人形を薄いビニール袋に入れてくれたが、その時、一瞬困惑したような表情を見せた。

「何か?」

「いえ、その人形、珍しいですね。初めて見ました」

店員は曖昧に笑って会計を済ませた。田中は人形の入った袋を持って店を出た。

アパートに帰り着いた田中は、人形を玄関の下駄箱の上に置いた。疲れていたので、シャワーを浴びてすぐに寝ることにした。人形のことはすっかり忘れていた。

翌朝、田中は異様な光景に目を疑った。

玄関に、昨日と全く同じ人形がもう一体置かれていたのだ。

「え?」

田中は慌てて下駄箱の上を確認した。昨日置いた人形はそのまま残っている。では、この玄関の床にある人形は一体何なのか。

「誰が置いたんだ?」

アパートは2階で、外部から侵入するのは困難だ。管理人が合鍵を使って入ったのだろうか。しかし、なぜ同じ人形を置いていくのか。

田中は床の人形を拾い上げた。手触りも重さも、昨日買った人形と全く同じだった。顔の表情、髪の毛の流れ、着物の柄まで寸分違わぬ作りだった。

「同じ商品が複数あったのか」

そう自分に言い聞かせながら、田中は2体の人形を並べて下駄箱の上に置いた。きっと管理人のいたずらか、隣人の間違いだろう。そう思うことにした。

しかし、翌日の朝。

今度はベッドの上に、3体目の人形が置かれていた。

田中は背筋が凍る思いだった。玄関ならまだしも、寝室に他人が侵入したということになる。しかも、彼は眠りが浅く、少しの物音でも目が覚めるタイプだった。

「どうやって入ったんだ」

田中は急いで部屋中を確認した。窓には鍵がかかっており、玄関ドアのチェーンもかけたままだった。侵入した形跡は全くない。

ベッドの上の人形は、他の2体と全く同じ顔をしていた。だが、なぜか田中には、この人形だけが微かに笑っているように見えた。

「気のせいだ」

田中は3体の人形を全て下駄箱の上に並べた。しかし、心の奥で不安が膨らんでいた。

その日は土日で、田中は一日中部屋にいた。人形たちを見張っているつもりだったが、特に変化はなかった。夜になり、安心して眠りについた。

月曜日の朝。

田中は悲鳴を上げそうになった。

部屋中に、同じ人形が無数に置かれていた。

リビングのテーブルの上、キッチンの流し台、冷蔵庫の上、テレビの前、窓際、トイレの便座の上、洗面台、そして布団の中にまで。数えてみると、全部で20体以上はあった。

全て、昨日買った人形と同じ顔をしている。

「誰が、いつ、どうやって」

田中の手は震えていた。これは明らかに異常な事態だった。人形の顔を見ると、全て同じ無表情のはずなのに、それぞれが異なる感情を浮かべているように見えた。怒り、悲しみ、恨み、そして憎しみ。

田中は慌てて人形を一つずつ集めて、ゴミ袋に入れた。気持ち悪くて仕方なかった。こんなものは一刻も早く処分したかった。

しかし、最後の1体を手に取った時、田中の動きが止まった。

人形の口が、確実に笑っていた。

「まさか」

田中は目を擦った。しかし、人形の表情は変わらない。口角が上がり、明らかに笑顔を浮かべている。

その時、背後で小さな音がした。

振り返ると、すでにゴミ袋に入れたはずの人形が、一体ずつテーブルの上に戻っていた。

田中は錯乱状態になった。これは現実なのか、それとも悪夢なのか。彼は人形を再び袋に入れては、また出現することを繰り返した。

そして、ついに田中は気づいた。

人形が増えるたびに、彼の記憶が曖昧になっていくことを。

最初の人形を買った時の記憶が、薄れていく。店員の顔も思い出せない。なぜ人形を買ったのかも分からない。そして、自分の名前すら怪しくなってきた。

「俺は、田中だ。田中…」

その時、玄関のチャイムが鳴った。

田中は恐る恐るドアを開けた。そこには、宅配業者が立っていた。

「田中様のお荷物です」

田中は荷物を受け取った。送り主は「100円ショップ かのん」となっている。田中は先日行った店の名前を思い出そうとしたが、記憶が曖昧だった。

荷物を開けると、中には手紙が入っていた。

『田中様

この度は弊店をご利用いただき、ありがとうございました。お買い上げいただいた商品についてお知らせがございます。

あの人形は、実は店の看板商品でございます。正式名称は「記憶転写人形」と申します。持ち主の記憶を少しずつ吸収し、人形の中に蓄えていく特殊な商品です。

人形が増えるのは、あなたの記憶が分割されて、それぞれの人形に宿っているからです。つまり、人形1体につき、あなたの記憶の一部が封じられているのです。

既に20体以上の人形が現れているということは、あなたの記憶の大部分が人形に移されていることを意味します。

最後の1体の人形が笑っているのは、あなたの「笑顔」の記憶を宿しているからです。

残念ながら、この現象を止める方法はございません。やがて、あなたの記憶は全て人形に移され、あなた自身は空っぽの器となります。

そして、その時こそが、あなたが真の人形になる時です。

最後になりましたが、もしこの手紙を読んで混乱されているようでしたら、それは既に記憶の大部分を失っている証拠です。

お気の毒に思います。

100円ショップ かのん 店長』

田中は手紙を読み終えた時、既に自分の名前を思い出せなくなっていた。

彼は鏡を見た。そこには、白い陶器のような顔をした自分が映っていた。表情は能面のように無表情で、黒い髪が肩まで垂れている。

部屋の中では、無数の人形が彼を見つめていた。

全ての人形が、同時に笑い出した。

そして、彼もまた、人形と同じ笑顔を浮かべた。

翌日、管理人が部屋を訪れた時、そこには誰もいなかった。

ただ、下駄箱の上に、小さな人形が一体だけ置かれていた。

とても精巧な作りで、まるで生きているかのような表情をしていた。

管理人は「100円ショップで売ってそうな人形だな」と呟いて、その人形を近所の100円ショップに持参した。

「これ、お宅の商品じゃないですか?」

店員は困惑した表情を見せた。

「いえ、うちでは扱っていない商品ですね」

結局、人形は店の隅の雑貨コーナーに置かれることになった。

商品棚にぽつんと、ひとつだけ。

そして今日も、誰かがその人形を手に取るのを待っている。