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傘の忘れ物
その朝、空は鉛色に重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな気配だった。田中健一は慌てて家を出たため、傘を持ってくるのを忘れていた。 駅のホームに降りると、案の定、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。健一は舌打ちをして、いつものベンチに腰を下ろそうと... -
誰が撮ったの?
麻衣子がそのことに気づいたのは、金曜日の夜だった。 残業で疲れ切って帰宅し、ベッドに倒れ込むようにして横になりながら、何気なくスマートフォンを開いた。友人から送られてきたメッセージに返事をしようと写真フォルダを開いたとき、見慣れない写真が... -
トロンボーンの棺
私立桜丘高校の吹奏楽部は、創部から五十年以上の歴史を誇る伝統ある部活動だった。部室の奥の楽器庫には、代々受け継がれてきた古い楽器たちが眠っている。その中でも特に目を引くのは、一番奥の暗がりに置かれた黒いトロンボーンケースだった。 三年生の... -
誰もいないはずの2階
夜の九時を回った頃、美月は居間のソファにもたれかかりながら、お気に入りのバラエティ番組を見ていた。両親は温泉旅行で明日の夜まで帰らない。高校二年生の美月にとって、こうした一人の時間は貴重だった。普段なら母親に「もう寝なさい」と言われる時... -
深夜2時に何度も来る配達員
最初にインターホンが鳴ったのは、三週間前の火曜日だった。 私は一人暮らしを始めて二年になる。新卒で入った会社の残業が多く、家に帰るのはいつも夜遅い。その日も午後十一時過ぎに帰宅し、シャワーを浴びてからパソコンで動画を見ていた。深夜二時を回... -
先輩はまだグラウンドにいる
県立青山高校野球部の夜は長い。部活動の正式な時間が終わっても、レギュラーを狙う二年生の田中と山田は、毎晩のように校庭に残って自主練習を続けていた。 「今日もやるか」 「ああ、頼む」 秋の夜風が肌寒い十月のある日、いつものように二人はバッティ... -
訪問者は母の声
深夜二時を回った頃だった。田中雅人は仕事から帰ってきて、缶ビールを片手にテレビを眺めていた。三十五歳の独身男性、両親を相次いで亡くしてから一人暮らしが長い。父は五年前に心筋梗塞で、母は昨年の春に癌で他界した。 母の死後、雅人は実家を売り払... -
写ってはいけない集合写真
十月最後の日曜日、秋晴れの空の下で開催された桜丘高校の文化祭は、大成功で幕を閉じた。私たち2年B組は演劇部門で準優勝を果たし、皆で記念写真を撮ることになった。 「はい、もう少し詰めて!」 写真部の田中君がカメラを構えながら声をかける。体育館... -
深夜の手術室
夏の夜の蒸し暑さが、廃病院の前に立つ四人の大学生の肌にまとわりついていた。 「本当にここに入るの?」美咲が不安げに呟く。錆びついた看板には「聖和総合病院」と書かれているが、その文字は剥がれかけて不気味な影を作っていた。 「せっかく来たんだ... -
閉店後のレストラン
俊也は高校二年生になったばかりの春から、駅前の高級フレンチレストラン「ラ・ローズ」で皿洗いのアルバイトを始めた。家計を助けるため、そして将来の大学進学費用を貯めるためだった。 ラ・ローズは創業三十年を誇る老舗で、地元では知らない人はいない...